Société d'histoire des relations nippo-françaises

<月例会発表要旨 2007年9月(第389回)~2019年5月(第496回)>
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第496回月例会発表(2019年5月25日)

一明治人の見た普仏戦争
横堀 惠一

元安芸藩士、渡六之介(後「正元」と改名。以下「渡」という。)は、普仏戦争中のパリでの体験を『巴里籠城日誌』等に遺した。本発表は、その最中の政変やパリ包囲の下でのパリ市民生活の変化、市民の反応等への一明治人の観察を紹介し、普仏戦争の欧州政治情勢、更には日本への影響を考察した。
当時、日本は、函館戦争が終結した直後であり、徳川幕府から外交関係を継承した明治政府が日本人駐仏外交官を派遣したのは、普仏戦争終結後であった。そのため、二次情報である官報、新聞報道の要約の多い『巴里籠城日誌』でも大山巌等軍事視察団に評価された。
渡は、当時、北駅、東駅、市庁舎等にも近い、10区にあるボネ(Bonnet)氏の寄宿学校に居住し、状況を観察し易かった。その観察は、知合いのレスピオー(Lespieau)中佐の陣地訪問以外に実戦がなく、戦況や政治的動向への市民の反応や食糧・日用品不足、価格高騰等のパリ市民の困窮が主である。
戦時下での帝政廃止、共和制移行を歓迎する民衆の熱狂、政府への民衆の強い要求、「一揆」とするパリ・コミューンへの渡の見方が冷淡と見えるのは、士族の出自、レスピオー大佐(その後昇進し、10月31日事件の軍法会議の裁判長としてブランキ(Blanqui)とフルーランス(Flourens)に死刑を宣告)との交流、外国人留学生としての立場によるかもしれない。
渡は、普仏戦争中のイタリア統一、スペインの王政復活、ロシアのトルコへの勢力拡大などを弱肉強食ととらえる。
普仏戦争の日本への影響では、戦後のシャスポー銃のプロイセンからの買入などよりも、中立宣言以降の小艦隊計画、戦争中の仏軍に倣った陸軍軍制の採用、大山巌軍事視察団の米・英・普・仏の視察、その後の岩倉使節団派遣等の流れを見ると日本の軍事近代化、更には、政治文化面の近代化を促進した契機となった可能性が高い。
なお、渡のフランスの敗因分析は、ミッドウェイ海戦の敗因分析(『ミッドウェー』淵田・奥宮)とも共通するものが多い。

 

第495回月例会発表(2019年3月23日)

川島忠之助遺稿に見る19世紀末日欧交流の表と裏
川島 瑞枝

日本で初めて翻訳されたフランス文学はジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」である。然しその翻訳者の履歴は大正末まで不明だった。偶然国文学者柳田泉博士が横浜正金銀行の元重役川島忠之助がその人である、と公表され川島忠之助は明治文学者の中に加えられたのであるが、彼は「八十日間世界一周」とポール・ヴェルニエ作「虚無党退治奇談」の2冊を翻訳出版しただけで生涯銀行家として文学とは無縁な生活を送った。フランス語が堪能で貿易実務にたけ絹の知識がある経歴で明治13年設立された日本初の為替銀行、横浜正金銀行のリヨン事務所で13年務めた彼は膨大な公文書を残した。個人的な手紙日記写真が震災戦災にも遭わず、130年間埃を被って存在し続けた。家族のだれもその価値を知らずに。
その中に彼が新妻に代わって付けていた家計簿がある。すでに劣化が進んでボロボロになった和紙に墨で書かれた文字から、19世紀末リヨンでの日本人駐在員家族の生活が読み取れる。美食の町リヨンにいても彼らは和食を恋しがり日本から米、調味料、缶詰め、日本酒を取り寄せている。さらに主人自ら蕎麦を打ちうどんをこね、鯖寿司を作って週末には必ず来客と共に過ごしていた。永井荷風の小説「フランス物語」の風景の12年も前の事である。19世紀末のヨーロッパは大不況だった。フランスは40%と物価が下落し、金融も不安定だった。そんな環境の中、駐在員の家族の発病、死去という悲しい出来事や正金銀行本店との意思の疎通を欠いた状態で忠之助は13年間という長いリヨンでの生活を頑張っていた。そこで出会った大勢の日本人との交流の模様が日記に克明に書き残されていて一級の歴史資料である。特に彼は仏露同盟について書き残しているが10数年後に開戦となる日露戦争を予感させるものである。又大統領カルノーの暗殺現場に居合わせてフランスの政情を実感したと思う。

第494回月例会発表(2019年1月26日)

日本におけるフランス革命研究史
水野 延之

「日本におけるフランス革命研究史」について報告を行った。日本には数多くのフランス革命史研究者がいるが、本報告では高橋幸八郎(1912‐82)を選び、その代表的な研究を見た。報告者は高橋の著書を読むとともに、高橋についての先行研究の成果をまとめた。そして高橋がフュレ(François Furet, 1927-97)に代表される修正派の見解と似た内容をより以前に主張していたこと、だが修正派とは異なり、恐怖政治期を逸脱ではなく革命の本質的な時期としていたことなどについて説明した。また高橋理論はブルジョワ革命についての一般理論であり、それをもってしてはフランス革命の具体的な分析は困難であることにも触れた。
しかし報告者は、高橋の説が晩年のソブール(Albert Soboul, 1914-82)に影響を与えているという点にも着目し、その「影響」について明らかにすることを試みた。報告では明確な答えを出すことはできなかったが、高橋とソブールは早期に相互に影響を与えている点を指摘し、高橋は自説とソブールの説との間に矛盾・対立を感じていなかったのではないか、という問いを出した。
参考文献(使用したものの一部)
高橋幸八郎『近代化の比較史的研究』岩波書店、1983年
柴田三千雄『パリのフランス革命』東京大学出版会、1992年
Shibata Michio, Chizuka Tadami et Ninomiya Hiroyuki, « Albert Soboul et les historiens japonais », Annales historiques de la Révolution française, No. 250, Octobre-Décembre, 1982, pp. 600-603
Soboul, Albert, « Une discussion historique du féodalisme au capitalisme : Contribution à propos de la Révolution française », La Pensée, No. 65, jan.-féb., 1956

第493回月例会発表(2018年12月15日)

ロラン・バルトと俳句
―新たな形式の模索のために―
石川 美子

ロラン・バルト(Roland Barthes)の批評活動は多彩であったが、大きく四つの時期に分けることができる。「エクリチュール」を論じた第一期(1947〜56)と、記号学的分析に取りくんだ第二期(57〜70)、「ロマネスク」を求めた第三期(70〜77)、みずから小説を書こうとした第四期(78〜80)である。
第一期から第二期への移行は、バルトがソシュール言語学に傾倒したことで起こった。第二期から第三期への移行は、日本滞在中に俳句を知ったことによってもたらされた。当時のバルトは、新旧批評論争のなかにあり、「自明のこと」や「自然なこと」といった威圧的な意味に抵抗して「意味の複数性」を主張していた。だが俳句によって、彼は新たな可能性を知る。「意味の中断」である。そのような俳句に魅了されたバルトは、それ以後は書きかたを大きく変えてゆく。意識的に断章形式を取り入れ、「わたし」を用いて書き、「快楽」「身体」を批評に取り入れた。これが第三期の特徴である。
そして母の死によって、彼は第四期に入る。「自分が愛する人たちを描きだす」小説を書こうとしたのだ。そんな彼が拠りどころとしたのが、やはり俳句であった。コレージュ・ド・フランスでの講義は「小説の準備」と題され、十三回の講義のうち八回が俳句の考察にあてられた。講義では、短い形式をいかに長い小説に織りあげてゆくかがテーマであったが、結局、俳句を物語にすることはできないという結論に達する。しかし同時に、俳句の本質とは「まさにこれだ」という純粋な瞬間と「それはかつてあった」という記憶感であることに気づく。そしてこの二つの特徴は「写真」の本質でもあると考えて、そこから写真論『明るい部屋』を生みだすことになる。
俳句は、二度にわたってバルトを救い、新たな書きかたの可能性を示したのである。

第492回月例会発表(2018年10月20日)

「詩人教授の系譜――明大詩人会を中心に、やや個人的に」 木村 哲也

日本特有かの詩人教授。しかも、なぜか仏文が多く、さらにはある時期の明治大学の教員やその教え子たちが多い。そんな時期に、偶然ながらモグリ受講していた。

飯島耕一(1930~2013)は、『アポリネール全集』(全4巻、青土社、1979)、詩集『夜を夢想する小太陽の独言』(思潮社、1983)(第1回現代詩人賞受賞)、晩年は日本定型詩協会で脚韻の試みをした。

窪田般弥(1926~2003)は、非常勤での出講。前述の『アポリネール全集』の他、飯島や後述の安藤たちとともに『堀口大學全集』(全13巻、小沢書店、1981~88)、自身でも詩集も出していた。

入沢康夫(1931~)は、雑誌『詩学』(詩学社)への連載をまとめた『ネルヴァル覚書』(花神社、1984)、3度めの『入沢康夫詩集成』(上下、青土社、1998)の他、明治学院大の天沢退二郎とともに、『宮沢賢治全集』(全19冊、筑摩書房、1995~2009)の編集に携わり国文の授業を担当したこともある。

安藤元雄(1934~)は、詩集『水の中の歳月』(思潮社、1980)で高見順賞を受賞。これは、シュペルヴィエルの世界そのものである。訳詩集としてはボードレールの『悪の華』(集英社、1983)がある。

渋沢孝輔(たかすけ)(1930~1998)、大岡信(1931~2017)もいた。

入沢、渋沢の教え子に、田野倉康一などが、同人誌、その名も『洗濯船』を昭和末期の学生時代に創刊し、明大詩人会として活動した。

小海永二(1931~2015)は、明大でないが、詩のアンソロジーの編集や、国語教育にも貢献した。

沓掛良彦(1941~)は、東外大で、詩人ではないし、むしろ仏文以外の感じではある。現代詩にやや疑問を呈しているが、現代詩の権化の思潮社の雑誌の対談にも出たり、訳詩集を刊行している。
これからの時代、詩人教授は出てきそうもないが、研究から得る詩想、詩人ならではの講読というのにも期待しておきたい。

第491回月例会発表(2018年5月26日)

「青淵漁夫・靄山樵者 著『航西日記』の基礎的研究」 関根  仁

『航西日記』(全6巻)は、明治4~5年に出版された渋沢栄一と杉浦譲の共著である。将軍名代・徳川昭武の渡仏に随行した二人による紀行文であり、渋沢と杉浦の見聞内容を知る貴重な記録とされる。諸研究をはじめ啓蒙書、ビジネス書でも引用されることが多い史料であるが、誤った情報が通説となっている事項も多い。本発表では同書の編纂過程など、これまでなされてこなかった基礎分析を行なった。

まず「編纂経緯」について、同書「叙」および渋沢の回想から、明治3年に大蔵省出仕時に大蔵卿・伊達宗城の「切なる御勧説」により編纂に至ったことを挙げた。また当時の渋沢の日記から、伊達に対して渋沢が在仏期の話をしていた事実も明らかにした。

2点目に「編纂過程」として、渋沢の回顧と『航西日記』の草稿史料から、実際に本文を執筆したのは、杉浦譲の父・七郎右衛門であったことを示した。さらに杉浦の日記を分析し、七郎右衛門が執筆のみならず版元、彫刻、筆耕の担当者らとのやり取りなど、編纂実務に従事していたことも明らかにした。

3点目に『航西日記』執筆の基となった、渡仏時における杉浦の日記やメモ類、渋沢の日記など「編纂材料」を分析した。これにより、二人の日記の記述がそのまま引用されているのではなく、日記や様々なメモ類(文久3年渡欧時の記録も含む)を基にして、七郎右衛門が新たに文章を執筆したことを明らかにした。

最後に『航西日記』の背景として、田辺太一、中村正直、箕作麟祥ら旧幕臣、また巌谷一六(水口藩出身)、日下部鳴鶴(彦根藩出身)など太政官で杉浦とともに働く人物たちが、編纂に関与したことを示した。本書はこれまで、渋沢の主導(あるいは「渋沢栄一著」と誤解されることも多い)で編纂されたと考えられてきたが、執筆、編纂実務、関係者などの分析から、実際には杉浦譲と七郎右衛門の主導で編纂が進められた事実を指摘した。

第490回月例会発表(2018年3月24日)

「1858年の修好通商条約―回顧と展望」  楠家 重敏

修好通商条約の歴史的評価について今から50年ほどまえに石井孝と坂田精一との間で論争があった。石井は修好通商条約こそ対米従属の原点であって、不平等な条約だと決めつけた。坂田はこれに反発して、不平等条約説の誤りに関し事例をあげて説いた。当時は石井説が有力であったが、今日では坂田説を支持する流れになっている。この半世紀の評価の違いは何からくるものであろうか。もうひとつの問題点は通商条約に関する従来の議論が最初の日米の条約から出発していることである。日本の教科書にも日米修好通商条約の内容が記載されている。これではその後の条約の追加条項の視点が全く見えてこない。むしろ、この条約は「後ろから」の再検討が必要なのである。つまり5番目の日仏修好通商条約と4番目の日英修好通商条約の条文を今一度見直してみる必要がある。しかも、この二つの条約は同じ年に結ばれた中仏と中英の天津条約との比較が可能である。フランスとイギリスの使節のグロとエルギンが中国と日本の両方で交渉し条約を結んでいるからである。この論点を検証し、今後の修好通商条約の研究の展望をこころみてみたい。
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第488回月例会発表(2018年1月27日)

「特異的普遍としての知識人―サルトルと加藤周一」 竹本 研史

戦後知識人の1人、加藤周一は、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)に大きな影響を受け、「知識人」とは、つねに抑圧されるものの側に立ち「普遍性」と「特殊性[=特異性]」の緊張関係を自覚した「知識の技術者」たるべきだと確信した。こうした知識人像は、歴史に対する関係のなかで特異性にも普遍性にも還元されない個人のあり方を指す、サルトルの後期主要概念「特異的普遍」の本質である。

本発表は、加藤が、この概念から知識人論の何を吸収したかを討究した。サルトルの「特異的普遍」を概説したうえで、加藤がそれをどのように理解したかを論じ、最後に、サルトル本人が「68年5月」を契機に知識人像を改めたあと、彼がどのように捉えたかを考察した。

加藤は、サルトルの「特異的普遍」理解を踏まえ、「世界の客観的な秩序」と「個人の経験のかけ替えのなさ」、および「歴史の過程」と一個人の「人生の一回性」が交わるところに人間を理解し、意味づけることが重要な課題とした。

一方で加藤は、サルトルが特異性と普遍性とをいかに統合するか、その腐心する姿を看取する。彼によると、サルトルにおいて一個の具体的な人間の「内側の論理」と「外側の論理」、具体的には、実存主義とマルクス主義的歴史哲学や、キルケゴールの特異性とヘーゲルの普遍性とでは、「理論的な統合」は不可能であるが、「事実上の統合」はつねに与えられている。つまり、理論的には、内側の論理は外側の論理へと開き、外側の論理は内側への論理へとたえず開く以上、両者の統合は不可能である。しかし、1人の具体的な人間は事実として、1回の生涯を送ること、そして同時にその生涯が歴史的文脈に置かれる以上、両者は統合された形で1人の人間に事実上統合される。こうして、加藤周一がサルトルの試みの困難さを理解しつつも、その苦闘そのものに理想の知識人像を見出していたと言えるのである。

第487回月例会発表(2017年12月16日)

「19世紀の漫画大国―日・仏・英」清水 勲

私は漫画・風刺画史を40年近くにわたって研究してきたが, 海外の人々が日本のこの分野に関心を持ち出したのは21世紀に入ってからだろう. 私に展示・講演・原稿執筆などの依頼が来るようになったからである. たとえば
① フロリダ大学美術館「漫画に見る近代日本」2005年
② ウィーン大学シンポジウム「幕末明治の風刺画」2006年
③ 台湾・逢甲大学国際シンポジウム「日本の近世近代漫画」2010年
④ ミラノ市「マンガフェスティバル」2013年
⑤ 日仏会館「ビゴー展」2018年
⑥ 大英博物館「日本漫画展」2019年
などの展示・講演に協力し, また協力しつつある. 日本の300年にわたる商品あるいは複製美術としての漫画の歴史を説明する上で大事なことは, その国の漫画史との関わりで説明していくことである. その基準になるのは英仏の漫画史である. 18~19世紀において, 両国は「漫画大国」になっていて, 日本漫画史をそれとの比較で解説することがわかりやすいと考えてきた.
日本の近世漫画(江戸戯画)はレベルが低く, 現代マンガとつながりがない, というのがこれまでの日本美術史や浮世絵史の専門家たちの見方だったが, 私はそれは間違いだと主張してきた. コマや吹出しの表現においても, 作品の質においても先進漫画大国である英仏とも全く見劣りしないものを生み出してきたと言えるのである.
それを説明する上で「漫画大国の基盤」「漫画表現技術の基盤」「〝面白い″の中身」という視点と20数点の図版を使用して話をした.

第486回月例会発表(2017年11月25日)

「マルグリット・ユルスナールと源氏物語」 森 真太郎

マルグリット・ユルスナールMarguerite Yourcenar (1903-1987)と源氏物語との邂逅について根本的な問いを立てたい。そもそもどうして彼女は源氏物語を受容できたのだろうか。というのも彼女の源氏経験は、文化的にも個人的にも稀有の現象であったからである。これについて以下の二点からアプローチする。(1)ユルスナールが源氏を読んだ時代(1920年代)までフランスにおいてどの程度の受容の積み重ねがあったか。(2)彼女の作家的な要請に、源氏物語はどのように応えたのか。

(1)について、我々は単純にアーサー・ウェイリー訳の伝播のみで考えず、江戸後期から明治時代における日本文学受容初期まで遡り、フランスにおける源氏物語受容の累積を検討してみた。源氏はロドリゲス小文典の仏訳時(1825)から「なのみことごとしう」にせよ既に伝えられていた。他でも、末松兼澄訳を読んだシャルパンティエの紹介(1906)で光源氏の倫理性がドン・ジュアンと比較されてもいた。こうした文化全体の受容状況の高まりののちにウェイリー訳によって源氏の受容がなされたといえる。

(2)ユルスナールが源氏にかんして述べた言説、さらに短編「源氏の君の最後の恋」の読解から源氏評価の共通項を探す。ユルスナールは、芸術家としての紫式部と、主人公としての光源氏の両者に対して、高度な芸術家および実存的資質を発見していた。それは作家である彼女が希求するものだった。その資質とは、事物存在それぞれの唯一性への感覚であり、こまやかさ、多様性などの評言も、抽象的な思考の背景によって支えられている言葉とみてよい。

ユルスナールの源氏との出会いは、異なった文化同士の出会いの精髄であると同時に、彼女自身の芸術家としての深い渇仰からもたらされた、まさに幸福な出会いであった。

第485回月例会発表(2017年10月21日)

「レオン・ド・ロニーによる神道と仏教の受容」 クリス・ベルアド

フランス初の日本語講座を創設したレオン・ド・ロニー(Léon de Rosny, 1837-1914)は1860年代から1880年代まで日本語教育に積極的に取り組んだが、1880年代からは専ら仏教に関する活動に力を注ぐようになった。本発表では、この「方向転換」の経緯を明確にすべく、ロニーによる神道と仏教の受容について考察し、またロニーが自分の役割をどのように考えていたか、についても考える。

1861年の講義録『日本文化』(La Civilisation japonaise)では、ロニーは神道、仏教と儒教を紹介しているが、先行研究をまとめることにとどまっている。

1872年に、浄土真宗本願寺派の島地黙雷(1838-1911)は岩倉使節団の一員として欧州を歴訪し、パリ滞在中に数回に渡ってロニーと会談する。翌年の第1回国際東洋学会では、ロニーは仏教について発表するが、島地から得た情報でロニーの仏教に関する理解が大きく進んだことが分かる。また、ロニーは1875年に島地との会談の一部を記録した記事を発表し、1883年の講義録『日本文化』(La Civilisation japonaise)においても、島地らの活動を紹介している。島地との会談は、今までの研究で考えられていた以上に、ロニーの仏教の受容において重要なものだったと言える。

一方で神道については、ロニーは宗教研究というより文献学の観点から見ており、1880年代に『古事記』と『日本書紀』の翻訳に挑む。しかし、どちらの仏語訳も完成しないまま、1880年代末から活動の領域を移す。ソルボンヌ大学で仏教についての公開講座を開き、その講座は人気を集め、さまざまな新聞で反響を呼んだ。

1892年には、ロニーは学者の立場を離れ、フランスで仏教を浸透させるべく、「折衷仏教学派」(L’École du bouddhisme éclectique)という組織を立ち上げる。同時に、フランスの新聞で掲載された仏教に関する記事を集め、「ヨーロッパにおける仏教の紹介」という12巻の記録集を作成する。この時点のロニーは、文化交流の「表舞台」に立って「役者」(acteur)になろうとし、またその活動の「記録者」(chroniqueur)にもなろうとしたと言える。

第484回月例会発表(2017年9月16日)

「1867年パリ万国博覧会に対する幕府の出品プロセスとメカニズムについて」 齊藤 洋一

わが国が初めて公式参加した1867年パリ万博への準備は、未知の領域への挑戦であった。限られた時間に主催者から要求された膨大かつ多岐に渡る展示物を整えることは大きな困難を伴っていた。本発表では、幕府の取り組みについて分析した。そこで浮かび上がってきたのは、大きな役割を果たしながらこれまでほとんど着目されることがなかった「シベリオン」という人物である。

当初、幕府は勘定奉行、外国奉行、目付で出品準備を分担していたが、作業は遅々として進まなかった。史料からは日本人による準備には限界があったことがうかがえる。こうした中、慶応2年3月、幕府は「シベリオン」と契約し、出品内容、展示手法、既に収集した出品物への意見聴取などを受け、それに基づいた準備を進めていった。彼の助言内容は万博の実態を踏まえた実践的かつ具体的なもので、その内容から当時の万博が巨大な商品見本市であり、商取引の現場であったことが浮かび上がる。また、日本の出品物として新聞に挿絵入りで取り上げられた甲冑人形は彼の提案によるものであったことも明らかにした。その他、出品物のパリへの運搬契約、万博終了時に売れ残った大量の出品物の販売委託契約締結など、彼は出品からその処分に至るまでも重要な役割を果たしていたことを指摘し、彼の事跡の解明が必要であることに言及した。

近年、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏の研究により、〝Chevrillon″(シュブリオン)が1868年に日本出品物の競売を行ったことが明らかにされている。日本語史料に記載される「シベリオン」は彼と同一人物と考えられることも考察した。その他、彼は徳川慶喜が派遣した弟・徳川昭武のパリ滞在費用の清算業務(為替処理)にも携わっている。彼についてはまだまだ未解明な点が多く、今後も探索を続けたい。

第483回月例会発表(2017年7月22日)

「パリ万博150周年記念コンサート」

末高明美(本学会会員・ピアノ)/市川景之(本学会会員・ピアノ)/駒井ゆり子(ソプラノ)/中森隆利(本学会会員・トーク)

第482回月例会発表(2017年5月27日)

德川昭武と多勃都会―日仏交流を支えたもうひとつの人脈 小寺 瑛広

德川昭武(1853-1910)は水戸藩9代藩主齊昭の18男として生まれ、実兄である将軍慶喜の名代として1867年パリ万国博覧会に派遣された。しかし、彼が1876年11月から1881年5月までの4年半、再度フランスに留学した事実はあまり知られていない。本発表では、従来指摘されていた昭武の外国人ネットワークの他に、彼の国際交流を支えたもうひとつの日本人人脈「多勃都会」について検討した。この会は留学期間に昭武が交流した10名(のち2名が加入)と1883年2月3日に結成された。会員には、德川家達、德川篤敬、河田煕、竹村謹吾、山本安三郎、大久保業、平山成信、三田佶、大越成德、長田銈太郎、末松謙澄、德川義禮がいた。昭武は留学期間中、少なくとも46名の在外日本人(うち14名が仏学会会員)と交流したが、特に德川宗家16代当主家達と随行者4名とは、留学経験やフランス語・英語などの教養を共有し、海外だからこそ可能な身分の差を越えた親密な交友関係を育んだ。家達は周囲の思惑で留学を中断するが、その苦悩を共感できる唯一の存在が昭武であった。この特別な関係性が会結成の要因と考えられる。家達と昭武の2トップ体制で始まった会は、「永続」を願う家達の強い意向や、記念品を自ら制作する昭武の熱意もあり、1909年10月に250回を数えた。ホテルや西洋料理店、会員の邸宅、地方など、会場や時間を変えつつ開催された会は、食事をしながら海外事情を「談話」する、会員の国際理解の場であった。そして、開催には家達の出席が不可欠であったようだ。会の結成前に家達と末松謙澄は源氏物語の英訳・出版に尽力し、平山成信は昭武とヴィレット(Léopold Villette)の交流を仲介し、ウージェニー皇后(l’impératrice Eugénie)との文通を仏文添削で支援していた。これらの交流は強く個が結びついた非常に個人的な「人脈」であるが、それゆえに、密度が濃く、個々の関係に寄り添った国際交流を成し得たのである。

■第481回月例会発表(2017年4月22日)

駐日フランス大使ポール・クローデルの対日政策 学谷 亮

1921(大正10)年から1927(昭和2)年まで駐日フランス大使を務めたポール・クローデルPaul Claudel(1868-1955)は、フランスと日本が「知と政治と経済について一度に接近すること」を目指していた。クローデルは、この3つのカテゴリーをどのように関係づけたのか。そして、彼のいう単数形の「接近」の内実は何であったのか。
クローデルはまずこのように考えた。日本は、日英同盟破棄によりイギリスと、移民問題をめぐりアメリカとの間に軋轢が生まれ、国際的な孤立に陥っている。そこで、フランスが日本の「代理人(correspondant)」となり、政治的なレベルでの日仏接近を進めれば、日本はフランスから、フランスは日本から恩恵が得られる。つまり、英米を仮想敵に仕立てた日仏協調がクローデルのいう「接近」の核をなしているのである。
経済の分野では、航空機・武器の対日輸出と、日本とインドシナ間の関税問題解決が外務省からクローデルに指示された。それは、当然フランスに経済的利益をもたらすものであったが、同時に、日仏の政治的接近を進めるためのきっかけでもあった。航空機輸出は航空技術の伝達と不可分であり、それは日本軍内部でフランスからの影響力を維持することにもつながっていた。また、関税問題解決のために企画されたインドシナ総督来日は、クローデルにとって、日仏関係強化の必要性を説く絶好の機会であった。
文化の領域では、何よりもまずフランス語とフランス文化の普及が重要視された。それは、英米やドイツの勢力を排除するための政治的争いでもあった。さらに、クローデルは日仏会館を単なる日仏交流のための施設としてではなく、将来の極東の安全保障体制構築を見据えた人材育成機関として構想していた。
このように、クローデル外交は徹底的に両国の「利益(intérêts)」にこだわり、3つの領域を互いに連動させることで、日仏両国の関係を全体的に緊密化させることを目指していた。

■第480回月例会発表(2017年2月25日)

エピナール版画研究の考察―フランス国立図書館のコレクションをもとに― 上田 あゆみ

本発表はペルラン社が20世紀前半に作成したエピナール版画に焦点を当て、フランス国立図書館(以下BnF)のコレクションLi 59 FOLとSNR-3-PELLERINに所蔵されている作品を通して、同世紀における見方を提案すべく、この版画の社会的役割を歴史的文脈から検討した。また最後にエピナール版画を美術史で研究することの意義について触れた。
第一部では現代までに出版された文献や当時の定期刊行誌からエピナール版画に関する記事をまとめ、民衆版画が課せられた課題が文化遺産としての認知、保護、管理であることを明らかにした。エピナール版画がこのような状況下で作成されていたことを踏まえ、第二部はBnFコレクションをデータ分析した。同図書館の法定納本記録簿に見る作品数とコレクションの作品数を割り出し比較した結果、調査範囲をヴォージュ県立古文書館に広げるべきと判断するに至った。その際、BnFコレクションの分析データが応用可能であることを実例を基に確認し、同コレクションの重要性を指摘した。第三部ではBnFが所有するエピナール版画をグループに分類した他、作家や作品のテーマ、様式を提示し、それらの選択に社会情勢や民衆の趣向が反映されているということを言及した。
以上の考察から、20世紀前半のエピナール版画の社会的役割は、ラジオやテレビが普及する前の教育的・文化的・時事的情報源であったと言える。時代に即した作品は、生活に直結した読み物と民衆に認識され、広範に普及していった。このような性質から、エピナール版画は思想や価値観の伝達手段と捉えられ、政治的・教育的メッセージを運ぶ役目を負った。今後は芸術的要素に着目し日本への伝播を調査する。日本人作家への影響を見る上で美術史的視点は必須である。20世紀のエピナール版画について新たな見方を提案できることが美術史で研究する意義だと考える。

■第479回月例会発表(2017年1月28日)

『フランス広文典』の系譜―戊辰の役で戦い敗れた有為の青年たちとフランスとの出逢い― 目黒 安子

目黒士門著『フランス広文典』は父目黒三郎著『仏蘭西廣文典』の流れのうちにあり、その題名は大槻文彦著『大言海』の序「語法指南」、のちに出版されて『廣日本文典』に由来する。大槻文彦は目黒士門の祖父目黒順蔵と同年で、父大槻盤渓の帰藩に伴い仙台藩校養賢堂に入学、順蔵と机を並べた刎頸の友であり師であった。交流は東京で晩年まで続く。
養賢堂は1736年開学、漢学部に蘭学、医学教育を加え、1815年に日本初の西洋医学講座、兵学講座を開設している。幕末に大槻盤渓が学頭となり養賢堂は藩政に随い、佐幕開国、非戦平和の牙城となる。
攘夷討幕の勢いは仙台藩を戦いに追い込む。戊辰戦争後、天下は薩長藩閥の支配するところとなり、養賢堂の俊英たちは東北列藩の青年たちと共に賊軍として就職の道は閉ざされ追われた。ここに順蔵の遺稿『仙台藩政之誤』がある。
1871年(明治4年)Marin神父が東京築地の外国人居留地に食・住・学費無償の「マラン塾」を開設した。この報に順蔵はじめ原敬など有為の青年たちは直ちに江戸に向かいマラン塾の門をたたく。2年間でその数100名を数えたという。目黒順蔵は一年後カトリックの洗礼を受け、フランス語を本格的に学ぶ。遺稿『道は人間の大典なり』がある。
順蔵はその後「医学校済生学舎」に学び資格を得て仙台に戻る。医師業の傍ら自由民権を語る青年たちと交流し、ために公職を去る。1899年待望の男子三郎が誕生、順蔵は三郎を暁星小学校に入学させるために上京、50歳半ば過ぎ東京で開業する。やがて目黒三郎はフランス語教授として『仏蘭西廣文典』を上梓する。順蔵晩年の遺文『処世の誤=誡世痴談』(大槻文彦序文)がある。
1831年即位したローマ法王Gregorius 16世は日本宣教をパリ外国宣教会Société des Missions Étrangères de Parisに託した。宣教師には三つの指針を示している。1)政治問題への不介入 2)現地の習慣言語への適応 3)重要問題は法王へ委任
1844年Forcade神父がはじめて日本へ派遣され那覇に上陸し日本語を学ぶ。以来現在までその数360人を超え、日本の土となる。江戸で或いは東京や日本各地でフランス人宣教師達の地道な活動が若い青年たちに何を伝えたか、日本の文明開化の底辺をどう支えたか、目黒順蔵の『遺文』は物語る。

■第477回月例会発表(2016年11月26日)

19世紀におけるフランス人宣教師の琉球滞在について 宮里 厚子

19世紀の琉球王国には、日本開国を待つ西洋列強の艦船が頻繁に出入りしていた。そのような状況の中、パリ外国宣教会は1844年から1862年の間に8人のフランス人宣教師を琉球に派遣し滞在させた。発表では、琉球王国が19世紀の西洋でどの程度認知されていたのかを地図や文献で紹介した後、宣教師達が琉球でどのような生活を送っていたのか、おもに彼らが同僚や上司に宛てた手紙・報告書等をもとに明らかにした。
琉球王国は14世紀からすでに中国へ進貢する独立王国の体をなす一方で、1609年以降は薩摩の支配を受けていた。1758年にフランス語ではじめて琉球を紹介したイエズス会士ゴービル(Gaubil)の文献にはすでにこの二重支配について触れられており、当時の西洋人は琉球人自身が驚愕するほど琉球のことを知っていた。19世紀中頃までに琉球に関するフランス語文献は他にも出版されたが、フランス人が公式な形で実際に琉球の地を踏むのは1844年のことである。
インドシナに展開するフランス艦隊の船で到着したフォルカード(Forcade)をはじめ、琉球に滞在したフランス人宣教師達の生活はどのようなものだったのだろうか。まず、彼らの滞在の主たる目的である宣教活動については、薩摩の支配下にある琉球ではその成果は皆無であったと言わざるを得ない。もちろん、厳しい監視体制のなか様々な方法で住民との接触を試みるが、これよって住民の命が危険にさらされることを知ると、次第に時機を見て当局の正式な許可のもと宣教活動を行うほうが賢明であるという考えに変わっていったことが彼らの報告書等から読み取れる。一方で、複雑な教理を説明するには十分な語学力が必要であることも実感し、彼らの日常生活は語学学習に重きを置いたものになる。特に1855年以降に滞在した宣教師たちの文書から、彼らが中国語と日本語の教師を派遣する琉球王府と円満な関係を保ち、近づく日本本土再布教に向けて語学学習に研鑽していた様子を明らかにした。

■第476回月例会発表(2016年10月22日)

カトリックの日本再布教前史について ―朝鮮教区設立からフォルカードの来琉までを中心に― 宮崎 善信

日本のカトリック再布教を論ずる際、必ず挙げられるのがパリ外国宣教会(La Société des Missions Étrangères de Paris)とその会員のテオドール・オーギュスト・フォルカード(Théodore-Auguste Forcade)であろう。周知のとおり、パリ外国宣教会は教皇庁から日本宣教を託された団体であり、フォルカードは1844年、日本宣教をめざして琉球に上陸したとされている。ところが、フォルカードが上陸した琉球は、当時、朝鮮教区(1831年に設立)の管轄であったので、厳密に言えば朝鮮教区の琉球に滞在したことになる。そして、フォルカードを派遣した同会マカオ代表部のリボア(Napoléon-François Libois)は、フォルカードの琉球派遣を第3代朝鮮教区長のフェレオール(Jean Ferréol)司教から委任されていたのである。

從って、フォルカードの来琉をもって日本再布教の始点とすることはできないと考える。フォルカードの来琉から2年後の1846年、教皇庁は新たに日本教区を設立し、琉球も朝鮮教区から切り離して日本教区に編入、フォルカードを日本教区の初代教区長に任命するのである。論者は、この日本教区の設立と初代教区長の任命をもって日本再布教の始まりと見たい。

こうした観点に立ち、本稿では日本の再布教、すなわち日本教区設立に至るまでの時期を日本再布教前史と位置づけ、まず、フォルカードの来琉に至るまでの経緯に関するこれまでの研究成果につき、韓国カトリック教会史研究の成果やパリ外国宣教会宣教師の書簡などの史料を援用しながら検討する。それから、フォルカードの琉球派遣に先立つ第2代朝鮮教区長アンベール(Laurent Imbert)司教の書簡を通じて、琉球だけでなく日本をも視野に入れた宣教活動を確認することにする。

以上の作業を通じて、日本の再布教に至るまでの経緯が明らかになると同時に、朝鮮教区の歴史が日本再布教史を言及するうえで欠かすことのできない前史を構成することが明らかになるだろう。

■第475回月例会講演(2016年9月3日)

江戸のナポレオン伝説 ―ゴロブニーン事件から戊辰戦争へ― 岩下 哲典

「はじめに」では、国立国会図書館デジタル・ライブラリーで、「ナポレオン」を検索すると、805件がヒットしたこと、その中から、安藤太郎著『文集』に掲載された「失敗のナポレオン」を枕に、多くの幕臣・長州藩士などの生き方にナポレオンが影響したことを指摘した。次に、「1.北から来た、ナポレオン情報」では、ゴロブニーン事件で幕府の拘束されたゴロブニーン一行のなかのムール少尉が、1812年4月に提出した「ムール獄中上書」を紹介し、1813年7月に幕府が入手したロシア語新聞の「アムステルダムをフランス第三の都市とする」勅令によるナポレオン情報よりも古い、最も古いナポレオン文献であることを指摘した。幕府天文方による「ムール獄中上書」のヨーロッパにおける出版計画がシーボルト事件で頓挫したことなどを論究した。「2.長崎経由のナポレオン情報」では、1818年に頼山陽が、長崎旅行をし、「仏郎王歌」を詠んだこと、その影響力の大きさを指摘した。田原藩士松岡次郎の『那波列翁伝 初編』刊行や清水市次郎編・刊『那波列翁一代記』を用いた。ほかに、天文方兼書物奉行高橋景保「丙戌異聞」「別埒阿利安設戦記」、岸和田藩医・蕃書和解御用小関三英の「泰西近年の軍記」「ホナハルテ伝」(のち『那波列翁伝 初編』」)などを紹介した。「3.『ナポレオン伝初編』の拡散」では、小関三英の仕事を追求した。美作の蘭学者にして浜松藩医牧穆中、津山藩医箕作阮甫、その孫麟祥(あきよし)、元八祖父、鷹見泉石などにも論究した。「4.幕末の志士たちとナポレオン」では、吉田松陰、佐久間象山、勝海舟、西郷隆盛を取り上げた。「5.幕府内部の親仏派とナポレオン」では、德川慶喜、津田真道、西周、德川昭武、渋沢栄一、向山黄村、小栗忠順、福地源一郎、大鳥圭介にみられる親仏感情の源流にナポレオンの影響があると指摘した。「おわりに」で、新政府に敵対したフランス人御雇外国人ブリュネが、勲三等や勲二等を授与されていること、1907年の陸軍大学校編纂・蠣崎富三郎講述『奈破翁第一世戦史』兵林館におけるナポレオンの記述、1931年の報知新聞社主催「大ナポレオン展覧会」に関して報告した。今後の課題として、東洋、特に中国におけるナポレオンの受容史研究の必要に言及した。主要参考文献は、岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』中公新書、1999年、同『江戸の海外情報ネットワーク』吉川弘文館、2006年、同「江戸時代における日露関係史上の主要事件に関する史料について」『外国人が見た近世日本 日本人再発見』角川学芸出版、2009年、同「幕末日本とナポレオン情報」劉健輝・佐野真由子編『Rethinking “Japanese Studies” from Practices in the Nordic Region「日本研究」再考―北欧の実践から 北欧シンポジウム 2012』(報告書)国際日本文化研究センター、2014年、同「ゴローウイン事件とナポレオン情報」『洋学史研究』第31号、2014年である。

■第473回月例発表会(2016年5月28日)

ロスチャイルドの « jardinier d’art » ─ 園芸のジャポニスムを担った日本人  鈴木 順二

1889年(明治22年)のパリ万博で日本の庭園・園芸を披露するために渡仏し、そのままフランスに留まりパリ近郊で没した横浜出身の庭師・ 和助(1865-1928)のフランスにおける事績を辿り、園芸のジャポニスムにおいて畑が果たした役割について考えた。

畑が日本庭園の造園など園芸の仕事をしたのが明らかなのは7カ所である(万博の園芸展示会場、Robert de Montesquiouのパリとヴェルサーユの屋敷、ブワ=ブドランにあったHenri Greffulheの別邸、ロージュ=アン=ジョザスにあったHugues Krafftの「緑の里」、ブローニュ=ビヤンクールにあったEdmond de Rothschildの別邸、同市にあったAlbert Kahnの日本庭園)。たとえばEdmond de Rothschildのもとでは、庭師だった兄や横浜植木株式会社との人脈を頼って日本の植物や動物(尾長鶏など)を輸入し、池泉回遊式の本格的な日本庭園を造り、長年にわたって管理していた。さらに畑は、アルマンヴィリエにもあったEdmond de Rothschildの別邸、フェリエールにあったAlphonse de Rothschildの別邸、サン・ジャン=カップ=フェラに作られたBéatrice Ephrussi (Alphonse de Rothschildの実娘)の別荘でも築庭に関わった可能性がある。また、詩人の金子光晴が自伝などで繰返し書いている1920年頃パリで会った日本人庭師も、畑だったと思われる。金子によると、この庭師は注文を受けてフランス人の助手とともに庭作りをして繁盛していたという。

畑は1903年のパリの菊花展に千輪咲きを4鉢出品して最優秀賞をとり、1906年には農事功労章のシュヴァリエを、さらに1912年にはjardinier d’artとしてオフィシエを受章した。

このように、当時のフランスにおける園芸のジャポニスムとして確認できるほとんどの領域(日本から渡来した多様な植物の栽培、日本庭園の造園・管理、盆栽作り、箱庭作り)で、畑は先駆的ないしは傑出した業績をあげていたことが確認でき、この分野において中心的人物であったと考えられる。

なお、横浜から来てKahnの日本庭園で1901年に働いていた2人の鈴木という職人(庭師、大工)と畑は、国勢調査の原簿から同時期にブローニュに住んでいたことが判ったので、彼らのあいだには様々な交流があったと推測される。

■第472回月例発表会(2016年4月23日)

仏語学習前史―墨書された蘭文法翻訳稿本を読む  岡田 和子

岐阜県立歴史資料館にある『言語法譯』は、セイデラールZeydelaarの蘭文法書を和訳した手書きの稿本で、寛政年間(1789~1800)の成立とされる。前野蘭化晩年の弟子である2代目江馬蘭斎が多少ごつごつした筆でオランダ語を書き写し、訳語を書き入れて和訳している。一冊の文法書を訳出しようとした初期蘭語学の最初の作品で、理解の誤りもみられ、文法用語もまだ整っていない。仏文法で現在使用されている≪半過去≫という用語―安政3(1856)年初出、これを明治元年の『仏語明要』が受け継いで現在に至る―も勿論なく、本書では≪未全成過時≫≪不十分過時≫と呼ばれている。

本書の特徴は「手書き」だという点である。当然書き手によって筆跡が違う。2代目蘭斎の多少ぎごちない筆跡に交じって、所々に流れるような筆跡が現れるが、これは3代目元弘(蘭斎の甥で娘婿)の手蹟のように思われる。江馬家に伝わる元弘筆写本の字体に酷似しているからである。蘭斎が故郷で好蘭堂を開塾したとき、元弘は十代後半、蘭語がよくできたという。『喎蘭言語法譯』は50代の叔父と10代の甥が力を合わせた取り組みであり、このような努力が、続く洋学の時代を切り開いていくのである。

元弘には『助辞要訣』という蘭文典の筆写本があり、一方、蘭斎の弟子である藤林普山には『語法』という蘭文法の刊本がある。両者の底本は共通の英文法書と思われるなど、江馬家周辺には解明されるべき点がまだいくつも残されている。

■第471回月例発表会(2016年3月26日)

中村光夫の青春とフランス体験―1930年代から『戦争まで』、及び1940年代へ―  浜田 泉

中村は第一高等学校でフランス語を学ぶ。モーパッサンを愛読した。一方、二葉亭四迷の作品にも惹かれたり、新進批評家小林秀雄を訪ねたりする。だが、当面は、当時のプロレタリア文学の影響を受けて、同人誌に小説、評論を発表する。東大仏文科に進み、鎌倉に下宿し、フロベールに親しみ、特に、未発表初期作品群と書簡集に熱中した。時に二葉亭も読み、その悲運な生涯に思いを馳せる。1935年、卒業後、それまで、モーパッサン論などを発表していた「文学界」に、親交深まっていた小林秀雄の推薦で、文学時評を1年間連載し、批評家として地位をきずいた。中野重治や横光利一の近作などをとりあげ、論じた。24歳であった。フロベールのG.サンド宛書簡集を出版したり、後に作家論を連載した。二葉亭論を連載後、刊行し、第一回池谷賞をうける。日華事変の翌年、1938年9月、フランス政府給費留学生として、渡仏、パリ大学に入学した。フランスも戦争の危機が不安を増していたが、若者らしく、パリの生活に刺激と驚きを感じつつ、溶け込んでいった。コレージュ・ド・フランスで、P.ヴァレリーの講義を聞き感動する。また、友人たちと車でひと月、イタリア旅行をし、ルネッサンスの息吹に触れた。翌年、春から夏にかけて、トゥールのパンションに住む。下宿の各国人と交わりながら、地方暮らしを十分に味わう。(「巴里通信」を始めに、フランス滞在記は、「文学界」に小林秀雄宛の形で順次掲載され、帰国後にも及んだ。)だが、9月には、英仏と独の開戦宣告が発されるなか、ボルドーより、避難船に乗り込み、米国経由で、帰国した。1940年にはドイツがマジノ線を突破後、パリを占領した。一方、日本も翌年、日米の戦争に突入した。中村光夫は、ヨーロッパが破滅に向かう、文字通り「戦争まで」を、現地にいて、国際政治の非情さや人々の不安、それにもかかわらず、日々の生活の希望や夢の発見を、丁寧に描きだした。卓抜な日仏文化・社会比較論となっており、各個人の人間の運命や広く、歴史についても考察を誘う。中村は戦中は寡作を余儀無くされたが、終戦後、逸早く、活動を再開した。戦争による精神的負債の最も軽かった一人であり、抜群の西洋文学の知識と、現実のフランス人の生活や伝統に潜む古さを知った強みが、評論のなかに、「何とも言えない優雅さとゆとり」をもたらしている。文体も小林の影響を受けた特に戦前の「~である」調、断定調から、フロベールの書簡体翻訳やアンティームな二葉亭の語り口、「戦争まで」(これも通信文体裁)の文体訓練を経て、言文一致の独特な文体、「です、ます」調に移った。それは1950年「風俗小説論」で確立されたとする。以後、30年以上にわたり、文芸界にその論調は轟いた。日本の自然主義と私小説を一貫して批判しつつ、日本に真の世界規模の近代文学への道を説き続けた生涯であった。

■ 第470回月例会発表(2016年2月27日)

ポール・モラン『夜ひらく』の翻訳に就て     中島 裕之

Paul Morand (1888-1976) の1922年の小説集 Ouvert la nuit は大正13(1924)年、堀口大學(1892-1981)による翻訳が『夜ひらく』という題名で出版され、昭和4(1929)年と昭和29(1954) 年には改訳が試みられた。
主人公と六人の女性たちによる六つの夜から成る作品だが、そのうち「カタローニュの夜」は1961年の青柳瑞穂(1899-1971)、「北欧の夜」は1975年の滝口文彦(1930-1996)による訳も存在する。
例えば男性一人称は堀口(大13、昭4)が「私」、堀口(昭29)と青柳が「僕」、滝口は「ぼく」。女性一人称は堀口(大13、昭4)が「妾」、堀口 (昭29)は「あたし」、滝口は「わたし」。Sensualité を堀口は「肉感」→「色気」→「肉情」と改めた。(青柳訳では「肉欲」)
Aïno bat des mains, débouche la bouteille avec une épingle à cheveux et, de plaisir, éternue. を「アイノは手を打って悦んで、束髪ピンでコルクを抜き、うれしさあまって嚔をする。」と訳した堀口訳(大13)は、詩人ならではのリズム感である。(滝 田訳では「アイノは手を打ってはしゃぎ、ヘアー・ピンで栓をあけ、嬉しがってくしゃみをした。」)また « Vous êtes un cochon international » は最初の堀口訳では「あなたは国際的の豚ですね」だが次からは「国際的な豚」に改められている。
流行小説は時代と共に去る運命である。Benjamin Crémieux が prose familière d’après guerre(堀口訳で「戦後に行われている時文」)と評したモランの文章は、やはり大正の時文で訳されるのが相応しい。外交官の子息であり詩人でもあっ た堀口は適任であった。

■ 第469回月例会発表(2016年1月23日)

フランス・ストーリーマンガ史と日本     猪俣 紀子

日本では一般的に知られていないが、フランスでは日本のストーリーマンガにあたるバンド・デシネ(bande dessinée、以下BD)が存在し、フランス文化のひとつとして広く親しまれている。19世紀からその源流を辿ることのできる長い伝統を持つBDはど のような発展をしてきたのだろうか。同じくフランスで発展を遂げた、一枚絵である風刺画との歴史的な関連を踏まえながらその誕生の過程を考察した。
基本的に連続的な絵を指すBDだが、その言葉としては1930年代に生まれ、60年代に定着したといわれている。その創始者として取りあげられるのが 19世紀前半に活躍したロドルフ・テプフェール(Rodolphe Töpffer)であり、絵で物語を展開した手法等が革新的とされた。また19世紀初頭から流布していたエピナール版画は、複数のコマで展開され文章と絵 を同時に鑑賞できるBDに先駆ける媒体といえる。日本との表現の違いについては吹き出しの使用が挙げられる。日本では吹き出しの使用をマンガ的表現の獲得 と捉えられるが、フランスではむしろ古い手法と捉え吹き出しの使用に特別な意味を与えられていない。フランスでは60年代になっても吹き出しのない説明文 を伴ったエピナール版画形式の作品が多く作られている。このような表現形式はBD研究者ティエリ・グルンステン(Thierry Groensteen)が評する西洋のBDの特徴、「読者と物語のあいだにある距離を持った関係が生み出される」ことになり、没入感をもたらす日本のマン ガ読書との差異を生み出す原因の一つと考えられるだろう。日本のマンガとは異なる読物として捉えられることの多いBDだが、例えばマンガは1920年代か ら欧米を追いかけ、戦後も作家レベルではBD作品が消費されてきた。現在はフランスでマンガスタイルのBDが散見される。フランスのBD、日本のマンガと いう二項対立では語り切れない、相互に影響しあう複雑なメディアとなっている。

■ 第468回月例会発表(2015年12月19日)

20世紀フランス諷刺画の変容と日本     清水 勲

G.ブランシャール(Blanchard)著『劇画の歴史』(窪田般弥訳、河出書房新社、1974年)に「19世紀のフランス人は吹出 しを知らなかった」という一文がある。少しオーバーな表現のようだが、この事実は「ストーリー漫画の成立は英語圏と仏語圏のどちらが先か」という問題に関 わってくる。
ストーリー漫画は「コマと吹出し」によって表現されることからすると、18世紀英国のJ.ギルレー(Gillray)あたりから始まったものと見てよい だろう。したがって、1830年代に登場するスイス人R.テプフェール(Töpffer)の石版刷を使った連続絵は、コマとその下にキャプションを付けた スタイルで展開し、仏語圏では、1920年代ぐらいまでそうした漫画が作られ続けるから、仏語圏源流説は少しあやしくなる。実際、日本で大正12年 (1923)に大ヒットした「正チャンの冒険」や「ノンキナトウサン」は、前者が英国の子ども漫画、後者は米国漫画「親爺教育」という「コマと吹出し」漫 画の影響を受けている。
しかし、20世紀の仏語圏ではカリカチュアもBD(コミック)にも吹出しが入り出し、その様相が一変する。とくに変わるのは石版刷から多色刷印刷への変 化だろう。その象徴はシャルジュ charge と呼ばれる「肖像漫画」表現の変化である。アール・ヌーボー、アール・デコなどの美術運動の影響を強く受けるようになる。
そのほかシャルリ・エブド事件の「ムハンマドの画」が諷刺画か否かにつき話をした。

■ 第467回月例会発表(2015年11月28日)

フランス人外交官が見た幕末日本社会と日本人
-シャルル・ド・シャシロン著Notes sur le Japon, la Chine et l’Inde : 1858-1859-1860 を手がかりに-
中津 匡哉

シャルル・ド・シャシロン(Charles Gustave Martin de Chassiron、1818-1871)は、徳川幕府と条約を結ぶべく日本にやってきたフランス使節団の一員として1858年に日本の地を踏んだ。つま り、彼は幕末期の最も早い時期に来日したフランス人の一人であったのだ。
ジャン・バティスト・グロ(Jean Baptiste Gros)全権大使が率いるこのフランス遣日使節団は、1858年9月13日から10月22日まで日本に滞在し、10月9日には、日本政府と修好通商条約 を締結することで、来日の外交目的を果たした。その間、シャルル・ド・シャシロンは、使節団随行員として、日本滞在中に日記をつけており、帰国翌年の 1861年、その日記を基に『Notes sur le Japon, la Chine et l’Inde (日本・中国・インドに関する覚書)』を出版した。
著書の中で、彼はフランスから遥か遠く離れた日本で見た風景や出会った人々、また、日仏両国の間に横たわる社会的・文化的差異を的確に描写している。彼 が日本や日本人について語る時、自分自身がより文明化したフランスという国から来た人間であるとはっきり意識をしているものの、それによって日本社会や日 本人を軽侮することは決してなく、むしろ、西洋社会が日本や日本人から見習うべき事柄を客観的に指摘し、分析しようとする姿勢が見受けられる。
本発表では、そのようなシャルル・ド・シャシロンが幕末日本に向けて投げかけた視線を紹介することを目的とした。日仏交流が幕を開けようとしていた時代 に、実際、その目で日本を見たフランス人が残した言葉を理解し、分析することは、歴史的文脈においても、文化的文脈においても、看過することができない価 値があるのではないかと思われる。

■ 第466回月例会発表(2015年10月24日)

明治期の日本人出稼ぎ移民の労働運動
-フランス領グアドループ島とニューカレドニア島を事例に-     ル・ルー ブレンダン

1894(明治27)年12月に、約500人の日本人出稼ぎ移民がカリブ海に浮かぶフランス領のグアドループ島に到着した。2年前に始 まったニューカレドニア移民に引き続き、日本人移民がフランスの植民地へ赴くのは2回目であった。日本人移民が携わったのは、ニューカレドニアではニッケ ル鉱山関係、グアドループ島ではハワイと同じように甘蔗(砂糖キビ)関係の、いずれも重労働であった。
ハワイや南米への日本人移民に関する研究と比べて、フランス領ニューカレドニアにおける日本人移民の話がそれほど研究されていないが、世界の反対側に位 置するグアドループ島における日本人出稼ぎ移民に関する研究はさらに少なく断片的なものしかないのが現状である。フランスでは、グアドループ島の歴史や移 民史(主にインド人移民)に関する先行研究において、日本人移民の存在が指摘されているがそれ以上の研究は見られない。一方日本では、移民史関係の先行研 究においてその存在が古くから知られているが、ほぼ表面的な記述しか見られないと言っても過言ではない。詳細な研究は管見では二つだけ存在するが、両方と も30年も前のもので、広島県出身の移民を中心に展開された研究で総合的かつ網羅したものとは言えない。その上、広島県を中心とした日本側の史料しか使用 しておらず、グアドループ島での日本人移民の状況についての情報が実に少ない。
このような現状において、報告者が発掘したフランス側の新しい史料(日本人移民の死亡と出生届、植民地省関連の史料や新聞記事など)を使用して、日本人 移民の送り出しの背景をより詳細に説明し、さらにグアドループ島における彼等の実態(主に死亡地や居住地)をより具体的に紹介することがこの報告の一つの 成果であった。また、厳しい労働条件におかれた日本人移民はニューカレドニアにおいてもグアドループ島においても到着するやいなや労働を拒否したり、スト ライキを起こしたりしたことが非常に興味深く、その原因や過程を、当時のグアドループ島そしてフランス社会における植民地支配・移民政策との関連で分析す る試みもこの報告の目的であった。 (原文=日本語)

■ 第465回月例会発表(2015年9月26日)

島崎藤村とフランス                滝沢 忠義

島崎藤村は長野県小諸市の小諸義塾の英語の教師を7年間勤めた後、フランスに行き、3年間外国の下宿生活を体験した。ちょうど第1次世 界大戦がはじまり、藤村はつぶさにフランスでの戦争を体験した。その間の事情は紀行文「エトランゼ」や小説「新生」などに記録されているが、日本を客観的 に見る目はこの外国生活で養われた。後にマクロな観点から書いた「夜明け前」は世界小説といわれるほどの大作で、さらに晩年、彼の歴史観は「東方の門」に 表現される計画だったが、第3章まで記したところで死を迎えることになった。生前記した「東方の門ノート」によると、この長編小説では幕末から明治、大 正、昭和初期にかけて西欧文明を受け入れる日本の姿を描く計画であった。シーボルト、岡倉天心、栗本鋤雲らの名前があり、Yの生涯が細かに記されていた。 この人物は信州・塩尻出身のフランス文学者吉江喬松であった。もし「東方の門」が完成していたならば、藤村の親友だった吉江がどのように描かれていただろ うか。ちなみに吉江喬松は早稲田大学に仏文科を作り、教育者として多くの人材を育てており、8巻に及ぶ全集が弟子たちの手で刊行されている。

■ 第464回月例会発表(2015年7月25日)

ピエール・ロチのシャルム                宮崎 陽子

7月の月例会の発表の核心は「文明の光と影・・・平和についての一考察」にあった。
放送大学院の工藤庸子教授の「フランス人海軍士官の見た明治の長崎」とは別の視点から考察を試みた。工藤氏は西洋の近代文明は身勝手で暴力的な男性原理 に貫かれておりロチも日本を軍事的に威圧する行動に関わっていたとし「お菊さん」は巷の人々を差別的表現を用いて描いたと非難し、ロチの4作品を土地の女 性が征服者を受け入れる性的歓待の物語と位置付けただけでなく異文化の交流と言う時、背後に広がる文明の力学を視野に入れることが真に重要だと指摘してい る。
工藤氏は西洋文明にロチの人物像を重ね合わせて評価しているが、現実のロチは逆に女系家族の中で育てられて女性的な細やかな感性が備わっていた。ロチは インドシナ戦争の残虐性についての報告を現地からフィガロ紙に送り掲載されたことが原因で本国に召還され、海軍退役命令が下っている。
夏目漱石は「坊っちゃん」の中で工藤氏が差別表現と指摘した「ヤマアラシ」や「赤シャツ」、「ウラナリ」などのニックネームを登場人物に付けて人物を生 き生きと描き出した。漱石が英訳や邦訳の「お菊さん」を読んで影響を受けたことが推察できる。文豪ロチは外交官の役割さえ担っていた。鹿鳴館に招かれた時 の印象を「秋の日本」に著した。短編「江戸の舞踏会」では人生をはかない打ち上げ花火に例えた。工藤氏はロチの4作品を性的歓待の物語と位置付けたが、ロ チは土地の女性を通して未知の異国を小説に描く手法を取っていた。戦争という辛い現実から逃れるためにも異郷での出会いはロチにとってかけがえのないもの だったに違いない。
ロチの異国情緒溢れる作品はオペラになり世界各国で愛された。ロチの文豪としての名声は退役を免れさせ後年大佐になっている。
参考文献:放送大学院『異文化の交流と共存(09)』Ⅱ-8

■ 第463回月例会発表(2015年5月23日)

富岡製糸場のお雇いフランス人たち-近年の調査の成果から-       結城 雅則

富岡製糸場の首長ブリュナFrançois Paul Brunatは、1866年3月、エシュト・リリアンタール商会の生糸検査人として来日した。1870年11月に明治政府と正式に雇用契約を締結、官営模 範器械製糸場の建設を指導し、1872年11月の操業開始後も経営に携わるが、1875年12月の契約期間満了に伴い帰国した。
ブリュナは、1840年6月30日ブール・ド・ペアージュに生まれ、同地のアンスティテュシオンを卒業後、リセ・ド・トゥルノンからリセ・ド・ディジョンに学び科学系バカロレアを取得した。
1871年3月、ブリュナは製糸場で使用する器械設備の購入と技術者雇用のために一時帰国し、妻をめとって同年12月に再来日する。夫妻は富岡で2人、上海で1人の女児を儲けた。
ブリュナは、1878年から上海でアメリカ資本の製糸場経営に携わり、1892年にはポール・ブリュナ商会を設立、宝昌糸廠を経営した。1881年から 1907年まで計17期にわたり上海フランス租界参事会参事を務め、この功績により1900年12月にレジオン・ドヌール勲章を受章している。帰国後、 1908年5月7日にパリで死亡した。
横須賀製鉄所の船工・製図職バスティアンEdmond Auguste Bastienは、1839年6月27日シェルブール生まれで、1870年12月から1872年7月まで大蔵省の嘱託として製糸場の建設に携わる。竣工後 も日本に留まり1882年7月に横浜で女児を儲けた。1884年には上海に渡りフランス租界工部局で設計・工事監督を務める。同年11月に日本人女性と結 婚し、1888年6月に家族と再来日するが、同年9月9日に横浜で亡くなっている。
このほか2人の生糸検査人や女性教師として日本人工女たちの指導に当たった4人の製糸工女に関する史料が見つかったが、依然として不明の部分が多く、今後も調査を継続していく必要がある。
なお、先行研究ではエシュト・リリアンタール商会の館主として「ヘツシエ、リリアンタル」なる人物がいたとされてきたが、同商会はエシュト Seligmann HechtとリリアンタールSigismond Lilienthalら3人の共同出資による会社であることが判明した。

■ 第462回月例会発表(2015年4月25日)

1615年支倉常長一行の南仏サントロペ寄港について
-M. Jean PASERO により解読、調査された古文書(☆)と注釈をもとに-
(☆ カルパントラ市アンガンベルティーヌ図書館保管古文書)        奈良 道子

かつて日仏会館の講演会で「1600年代にヨーロッパに派遣された支倉常長の使節団が南仏サントロペで何日かを過ごした。そしてその記 録がカルパントラの図書館に保管されている」と聞いたことがあり、それがずっと頭の片隅に残っていた。会館の講演会でこのことを話されたのは故・富田仁先 生であることが後にわかった。
カルパントラに別荘を所有しているフランス人の旧友夫妻に頼み2013年6月にこの図書館へ連れて行ってもらい、古文書のコピーを入手した。これは4通 の短い手紙にすぎないのだが、その解読は私には不可能であったので、この友人夫妻に依頼した。しかしこれは彼らにとっても予想以上に困難であった。手書き のため読みにくい、コピーが不鮮明、現在とはだいぶ言葉が違う、その上ラテン語やイタリア語まで混ざっている、ということであった。しかしM. PASERO (パゼロ) はこの困難な作業をやりとげてくれた。
さらに彼は図書館へこの古文書を探しに来る人たちのために解読文に添える目的で、インターネットを駆使して支倉使節団に関する情報を調べ、前文とあとがきを加えてくれた。日本で調べることができたものとくい違う点については修正してもらった。
調査中に、すでに邦訳が存在していることがわかったが、一つは文語体、一つは注釈なし、一つは4件中3件のみ、最後の一つは邦訳ではなく、4件中の2件 をローマ字の活字としたもので、現代仏語でもない。今回の発表内容は、「M. PASERO の現代仏語訳、前文、あとがき」の邦訳に、解読者と訳者による数多くの注が加わっている点が、既存のものと異なっている。解読の差によると思われる既存の 邦訳との差も何か所か存在している。
使節団の主目的であったマドリードやローマでの滞在についてはスペイン語やイタリア語の数多くの記録が現地に保管されており、その邦訳も存在している。 サントロペ滞在は天候不良による偶然の寄港で、緊張から解き放された楽しい場面、オペラの中のバレエの場面あるいは間奏曲といった感じである。7年弱に及 ぶ支倉常長の旅の中でサントロペ滞在は0.1パーセントを占めるに過ぎないが、日仏交流に関心のある者にとっては大きな歴史的事件である

■ 第461回月例会発表(2015年3月28日)

明治維新期におけるフランスからの男子服意匠の導入の歴史     中村  茂

1872年(明治5年)11月12日に太政官令によって明治政府の高級官吏の正装用礼服が洋服に定められた。明治期の服飾史研究では礼 服・軍服・制服などの意匠の変遷や、それらの服制の歴史などの先行研究がある。ただし、「洋装化」の進展に不可欠な役割を果たした諸外国からの支援・交流 の実態に着目する研究はほとんど見られない。
1830年創立のパリの服飾技術専門学校、AICP校(Académie Internationale de Coupe de Paris)には日本由来の注文書や絵型などが残っている。それらは明治期の男子服の「洋装化」がフランスからの支援で始まったことを裏付ける貴重な証拠 である。本研究では、礼服・軍服などの男子服意匠の導入に大きな影響を与えた日仏間の交流の実態と意義を解明する。
ナポレオン3世から贈呈されたとされる徳川慶喜の軍装は軍事博物館に同じ意匠のものが当時の将軍・元帥の礼服として存在しているが、その経緯を裏付ける 文書は見付かっていない。御真影として普及した明治天皇の御服は、AICP校に現存する絵型の意匠とほぼ同様であり、肩章や菊の紋様が付加されている。ま た『明治天皇御料御保存御服目録』には「仏蘭西陸軍形高帽」の記述が見られる。
パリ万博に派遣された慶喜の実弟、徳川昭武(清水民部大輔)はブーシェ(S.Bouché)というテーラーで洋服を仕立てた(1867年)。ブーシェの 店(AUX GALERIES DE PARIS)では看板や名刺に三葉葵と見られる紋様が使われ、「民部大輔用達」申渡書の記述が『徳川昭武滞欧記録』に見られる。
本研究では引き続き、「洋装化」に関わった日仏関係者の動向の解明に向けて史料調査を継続していく。

■ 第460回月例会発表(2015年2月28日)

第二次世界大戦後のフランス、フランス文学への視線
-カミュの受容とアルジェリア戦争期の論壇誌を例に-     茨木 博史

1951年、カミュAlbert Camusの『異邦人』が雑誌『新潮』において窪田啓作訳で紹介されると、仏文研究者サークルの枠を超え、多くの知識人たちからの反響を生んだ。『異邦人』は世界最先端の文学として紹介されたのであった。同年に起きた中村光夫と広津和郎の「『異邦人』論争」では、『異邦人』に否定的な年長者の広津を、年少の中村が「現代性」を盾に激しく攻撃した。以後、サルトルJ.-P. Sartreとともにカミュは「実存主義」を代表するスターとして、矢継ぎ早に著作が紹介されていき、いわゆる「カミュ・サルトル論争」にも大きな関心が 寄せられた。日本の知識人たちは彼らの思想を、自らの生き方に関わる問題として受けとめていた。
1954年にアルジェリア戦争が勃発すると、日本においてはサルトルに倣ってアルジェリアの独立を支持する声が高まった。このとき盛んに発言していたのが、野間宏や堀田善衛をはじめとする仏文科出身の作家や知識人たちであった。フランスで出版されたアルジェリア戦争関連の諸著作も次々と翻訳されていった。フランスの植民地主義について議論を交わす中で、日本の植民地主義の経験や第二次世界大戦の反省も踏まえて、日本の論壇ではフランスに対して批判的な 視点が生まれていった。1961年には東京でアジア・アフリカ作家会議の緊急集会も開催された。大江健三郎はカミュの『反抗的人間』から着想を得てテロリ ズムについて論じたり、アルジェリア戦争を物語に盛り込んだ『われらの時代』を書いたりしている。カミュはアルジェリア戦争のさなかに急死するが、中村光夫はその死に際して、カミュの作品における、フランス本国の文学とは異質なものを含む植民地文学としての側面を、エドワード・サイードらに先駆けて指摘した。

■ 第459回月例会発表(2015年1月24日)

フランス人宣教師 Marc-Marie de Rotz の事業構想とその展開
-長崎県外海地域のコミュニティー改革-     山川 勝己

仏人宣教師ド・ロ(Marc-Marie de Rotz 1840~1914)は、1868年幕末:明治維新にカトリック教皇代牧、プチジャン(Bernard-Thadée Petitjean 1829~1884)神父(パリ外国宣教会:Société des Missions Etrangères de Paris)とともに来日、1879年外海(隠れキリシタンの里)の主任司祭に就任し、彼のリーダーシップ、協働、共創、により間断(約30年間)なき事 業展開をした。その事業過程を経営史観より追究を試みた。
彼の事業思想は19世紀カトリック宣教戦略、父ノルベール(Norbert de Rotz 伝統的領主貴族)、司教・教育家デュパンルー(Félix-Antoine Philibert Dupanloup 1802-1878)の思想・教育、「パリ外国宣教会」の理念や指針などが事業構想・思想の基本となっていた。
外海就任以前は約十年間、石版印刷業(日本初:パリで研修)で、経営を実践、一方、建築設計・工事・監理し、また伝染病(赤痢・チフス)の医療業務で、多くの人と交流、日本語・民性や慣習を学習した。
維新政府も引続きキリシタンを強圧、1873年「キリシタン禁令高札」解除後も、社会的偏見と貧窮、厳しい自然環境下にあり、彼は天啓的心性、慈愛心を 魂底に人々の自立心確立を旨に、地域性を鑑み、子女教育の中村私学を設立(その持続的伝統で出津から2名の枢機卿、田口、里脇を輩出)、「食」の増産・安 定化にソーメン、マカロニ、パンなど製造、農業教育(新品種の導入育成)を推進した。
仏・独より機織機、関連機器を輸入、洋式反物、和・洋衣服・制服や具足など製品化し地域の人々に使用させ、他地区へ販売した。伝染病防止の上水道(県2番目)の敷設、県道工事、危険な出津船着場の改造、平戸等に開拓地を購入し数十組を移住させた。
彼は複式簿記も知悉、会計、出納簿、雑録簿、日記等をヘボン式ローマ字(日本語)で記録、建築物は国指定重文等となっている。来日後、一切帰国せず、救 助院をコアに所有資金(24万フラン)を随時資本投下、即ち地域の人々と共創・協働でコミュニティー改革事業を展開したと言えよう。

■ 第458回月例会発表(2014年12月20日)

フランス人浮世絵師ポール・ジャクレー:生涯と作品     猿渡 紀代子

2013年フランス国立ケ・ブランリー美術館(パリ)で大規模なジャクレー展が開催され、7万人の入場者を集めた。2003年横浜美術 館での展覧会以降、韓国(2006年)、グアム(2007年)に続いて、母国で初めてまとまった紹介がなされ、再評価の機運が高まっている。
ポール・ジャクレー Paul Jacoulet(1896~1960)は、父親がフランス語教官として日本に赴任したことから、3歳で来日。多くの家庭教師について日欧の言語・芸術を 学びながら、日本の学校教育を受けた。10代から浮世絵の模写を始め、1918年頃には肉筆浮世絵で注目を浴びる。在日フランス大使館に勤めながら歌舞伎 や義太夫に熱中し、浮世絵コレクターとしても番付(1921)に載るほどであった。
1927年以降は水彩による肖像画をもっぱら描くようになり、1929~1932年に毎年旅行した南洋諸島で描きためた水彩画をもとに、1934年木版 画第一作となる《サイパンの娘とハイビスカスの花、マリアナ諸島》を刊行。南洋・日本・韓国・フランスを主題とする版画10点をまとめて「世界風俗版画 集」として売り出し、大きな反響を得る。
1942年には表現・技法ともに贅を尽くした「中国宮殿風俗」連作を刊行するが、1944年軽井沢に疎開し、官憲の監視下に自給自足の生活を送る。戦後 はGHQの後援による個展を各地で開催し、多くの駐留米軍関係者がジャクレー作品を買い求め、アメリカでも個展が相次いで行われた。
1954年新たな題材を求めて半年間の世界一周旅行に出発するが、アメリカ上陸を果たせず日本に帰国。1950年代後半にはフィンランドでの個展が続くも、1960年軽井沢で病没。アトリエには、新シリーズのための下絵を含む数千点の画稿・作品が残された。

■ 第457回月例会発表(2014年11月22日)

日本学者レオン・ド・ロニー(1837-1914)再考     クリス・ベルアド

レオン・ルイ・リュシアン・プリュノル・ド・ロニー(Léon Louis Lucien Prunol de ROSNY, 1837-1914)は1837年4月5日、フランス北部に生まれた。少年時代、東洋語学校(Ecole des langues orientales)において同時に複数の言語を学び始めるが、しばらくして日本語の学習と研究に専念するようになる。まず「出島三学者」などヨーロッ パ人の学者や宣教師の日本語に関する資料をまとめる作業に取り組み、1856年に『日本語研究入門』(Introduction à l’Étude de la Langue japonaise)を発表する。
そして、1862年4月、文久遣欧使節団がパリに滞在する際、ロニーは使節団の通訳を務め、福澤諭吉(1835-1901)や他の団員との交流を通し て、日本について多くの情報を得る。翌年の1863年から、東洋語学校でフランス初の日本語講座を担当するようになり、その5年後、同じ東洋語学校の日本 語講座(chaire de japonais)初代教授となる。ロニーは以後、パリを拠点とし、生涯一度も日本を訪れることはなかった。しかし、ヨーロッパの書店やオークションなど を活用し、また在日外国人と日本人のネットワークも生かして、かなりの文庫を築き上げた。
ロニーは日本に限らず、アジア諸国の文化や宗教(とりわけ仏教)に強い関心があり、1860年代から1880年代までの20年間、日本語教育者・日本学 者の役割を果たす傍ら、仏教に関する研究も行っていた。1880年代以降、日本学から離れ、宗教文化に関する活動が中心となる。1892年に「折衷仏教学 派」(L’École du Bouddhisme éclectique)という組織を立ち上げる。その「折衷仏教」とは、キリスト教と仏教に19世紀フランス哲学者・思想家のオーギュスト・コント (Auguste COMTE, 1798-1857)の「実証主義」(positivisme)の要素を加えたものである。
ロニーはフランスにおける初の日本学者であると同時に、様々な分野でも活躍しており、様々な「顔」を持っている。ロニーの残した遺産をより明確に把握するため、今後もロニーのそれぞれの側面を対象とした研究が必要であろう。

■ 第456回月例会発表(2014年10月25日)

フランスの幕末期対日外交におけるロッシュのイニシアチブ
-1864‐65年の蚕種輸出を中心に-     中山 裕史

1850年代以降のフランスでは、蚕の微粒子病流行により、リヨン以南の養蚕地帯が深刻な危機に陥った。そこには代替産業がなく、この 窮状を救うには、健全な蚕種(蚕卵紙)の導入以外なかった。ところが、フランス政府主導の中東・アフリカにおける新種探索は全て失敗していた。そこに日本 産蚕種の成功が伝わり、にわかに期待が高まった。1864年夏、ロッシュLéon Rochesは幕府に対し、フランス政府の要請として、日本の対仏蚕種輸出への協力を求めた。
当時の幕府は蚕種輸出を禁じていたが、「仏国養蚕不作ニ付同国政府ヨリ本邦産蚕卵紙買入」要請に応える形で、ロッシュの蚕種買入に協力し、同年秋、1万 5000枚の蚕種輸出を許可した。これは公式には仏外務省による蚕種買入であったが、実際は、ロッシュが、外務省本省の許可を待たず、個人資金で行ったも のであった。勿論、翌65年に外相に承認されて、ロッシュの「立替」は精算されている。
この日本産蚕種はフランスで大歓迎されたため、ロッシュは幕府に仏政府の感謝を伝えるとともに、幕府に更なる蚕種輸出を勧めた。そこで、幕閣は1500 枚の蚕種をフランスに送った。ロッシュは、幕府の前年の協力を高く評価した外相の訓令の抜粋をその礼状として転用して提出した。この礼状を老中水野忠精が 「領解」したことで、1865年春の蚕種輸出はナポレオン3世NapoléonⅢに対する寄贈として処理されることになった。(『続通信全覧』及び同書未 収録の外務省引継文書)そして、この幕府の「寄贈」が今日まで通説となり、同年夏の1万5000枚の寄贈とともに幕府のナポレオン3世への蚕種寄贈は2回 とされている。
しかし、この「寄贈」という名の65年春の輸出代金はフリューリ=エラール銀行Flûry-Hérardの口座に振り込まれ、翌年のナポレオン砲輸入代 金の支払いに回された。これは、ナポレオン砲の日本到着時に請求書がなく、勘定方から勘定奉行小栗順正に問い合わせがあったことでも明らかである。
これ以後、1860年代後半に日本の対仏輸出は生糸と並んで蚕種も重要品目となった。ロッシュは、これによってフランスの養蚕地帯を救うとともに、幕府 に蚕種・生糸の輸出とその代金による武器輸入というファイナンスの道筋を示した。これこそが、ロッシュの個人的イニシアチブが発揮された好例といえる。

■ 第455回月例会発表(2014年9月27日)

『八十日間世界一周』の翻訳者 祖父川島忠之助の足跡    川島 瑞枝

明治11年我国最初のフランス文学作品を出版した川島忠之助は何処でフランス語を習得したのか。その原点は横浜の歯科医アレキサンドル (Alexandre)家の住み込みボーイ生活と横須賀製鉄所付属黌舍での3年間のフランス語による教育だった。日本の近代化のため日本に招聘された若き 技師ヴェルニー(Verny)の徹底したフランス語による教育は忠之助をはじめその後の日本を代表する青年たちを送りだした。卒業後、21歳で官営富岡製 糸所のフランス語通詞兼政府への提出公文書作成者としてブリュナ(Brunar)のもとで働く。初めての世界一周の旅はイタリアに蚕の種紙を売りに行く商 人達の通訳としての仕事だった。帰国後、横浜居留地のフランス貿易商会に就職。支配人ガイゼンハーメル(Geisenhheimer)との出会いは、その 後フランス時代も友好的に続くことになる。黌舍で身につけたフランス語、富岡での生糸産業の知識、外国商社での貿易実務は自然と彼を横浜正金銀行リヨン出 張所への道に導いた。13年間のリヨン滞在中再会した黌舍時代の学友達、恩師ヴェルニー、ブリュナ、新たに出会った学者、軍人、芸術家、官僚達が生涯良き 友人であり続けた。
家庭生活では、2度も最愛の妻を病気で亡くすという人生の悲劇を体験している。然し60歳まで8人の子をもうけ、晩年は読書三昧の生活だった彼は85歳 という長命でパリ祭の日に亡くなった。彼のフランス語翻訳本についてどうしても忘れてはならない恩人は「柳田泉博士と富田仁教授」であろう。柳田博士は偶 然『八十日間世界一周』の訳者が忠之助だということを知り、再度「光」を当てて下さった方。富田仁教授は「忠之助の訳本がアメリカ版の重訳」ではないとい うことを精査し証明して下さった方である。膨大な手紙、文書、写真などがまだまだ整理されずに手もとに残されている。これらは祖父から不肖の孫への重い宿 題である。

■ 第454回月例会発表(2014年5月24日)

ボードレールの詩「秋の歌」の邦訳をめぐって    磯波  仁

詩 Chant d’automneは、『悪の華』再版(1861)に収められる以前に、「同時代評論」Revue contemporaine(1859.11.30)に発表された。それには、<à M.D.>の献辞があったが、『悪の華』再版に収められたときにはそ れが抹消され、Ⅰ.部とⅡ.部に区分され、詩句には疑問符、連結符、感嘆符が付されて、詩型の完成度がより高められている。M.D.というのは、舞台女優 マリー・ドーブランMarie Daubrunのことで、バンヴィルBanvilleとは既に恋仲であったが、ボードレールBaudelaireは彼女に熱い心の内を二度伝えている。一 度目は1852年初め、宛先を<À Madame Marie>とした書簡によって、二度目は「同時代評論」に載ったこの詩によってである。
さて、私の発表は「秋の歌」の邦訳をめぐる論点を二つに絞って考えた。
一つはこの詩の日本への移入について、二つ目は原詩と邦訳の関係についての私の所見である。
1.永井荷風は、五年弱のアメリカとフランスの外遊から帰国した翌年の明治42年(1909)、『スバル第七號』に「秋の歌」の邦訳を掲載している。これ が、我が国における「秋の歌」邦訳の嚆矢である。ところがフランス語・フランス文学の専攻はようやく萌芽期の段階で、邦訳の殆どがスタームF.P. SturmやスコットCyril Scottの英訳からの重訳に頼らざるを得ない一般的状況であった。『悪の華』の完訳は昭和9年に矢野文夫によって成された。馬場睦夫は大正8年に「秋の 歌」を含む78編を抄訳している。
2.「秋の歌」の原詩は、Ⅰ.部とⅡ.部を境にして、詩人の心像が一変している。Ⅰ.部は、魂が下降する詩人の悲痛な憂鬱。薪が敷石に落される不吉な響きに始まり、最後は死を暗示する柩に釘する音で終わる。Ⅱ.部は、詩人が創り出す水平にして静謐な至福の夢想。
Ⅰ.部最終節の<Pour qui? ― C’était hier l’été ; voici l’automne! Ce bruit mystérieux sonne comme un départ.>は、「誰を葬ろうとするのか?― 昨日は夏をだったが、今日は(voici = c’est)秋をだ!この神秘な物音は、葬送の鐘の音と響く。」と解釈したい。
締めに、1852年のドーブラン宛の書簡にChant d’automneの詩趣を窺わせる文章が既にあるので引用する。
J’étais mort, vous m’avez fait renaître. Vos yeux m’ont initié au bonheur de l’âme dans tout ce qu’il a de plus
parfait, de plus délicat. Marie, soyez mon ange gardien, ma Muse et ma Madone.

■ 第453回月例会発表(2014年4月26日)

ビゴー版画集に記録された近代史    清水  勲

最近の歴史研究では文献以外に絵画・図像・写真などのビジュアル資料が盛んに使われるようになった。たとえば、東京大学史料編纂所附属・画像資料解説センターの活動がある。
そこで、明治10年代後半にフランス人ビゴー(Georges Bigot 1860-1927)が日本で刊行した版画集に記録された作品に、どんな歴史が記録されているかを読み取ってみた。とくに注目すべきは次の3点である。
(1)明治15年(来日の年)の秋、千葉県の成田街道とその先の佐原街道を行き、香取・鹿島あたりまで旅をしていること。
(2)近代落語の創始者である三遊亭円朝の公演を聞き、その様子を描いていること。
(3)皇居前を行く囚人たちの一行を描き、彼らが自由民権運動の闘士たちで、ビゴーの知人たちであると推定されること。
(1)は船橋・印旛沼・成田・佐原などを描いた作品があることから推定され、さらにその流れの中に「剣道」をする人物像がある。維新後、東京で廃れた剣 道を初めて目にして描いたようだ。したがって、佐原街道の先の剣道の盛んな香取あるいは鹿島(塚原卜伝の出身地)あたりまで足をのばしたようだ。
(2)は写真や肖像画はあるが公演姿が記録されていない円朝像。人気落語家の評判を聞いて会場へかけつけたのである。
(3)は、偶然見かけたのではなく、仏学塾に出入りしていたとき、兆民と関わる人から情報を得て待ち構えていたのである。彼らはどこから来て、どこへ向かうのかを解説した。
このほか銅版画集の巻末にある影絵漫画が日本からの影響でフランスで影絵コマ漫画化されて人気を博し、それがビゴーによって日本にもたらされたこと。交 流があった小林清親が明治20年代に盛んにコマ漫画を制作するようになるのも、ビゴーからの影響と推定されることを説明した。

■ 第452回月例会発表(2014年3月22日)

加藤雷洲編『佛語箋』の成立をめぐって    田口 雅子

『佛語箋』は、幕末から明治初期に、人々の関心が蘭語から仏語に移る一時期に刊行された意義分類体の和仏対訳単語集である。木版刷り、 袋綴の袖珍本で、上下2巻、3174語を収録する。また、明治元年から明治2年12月までに「下巻」が刊行されたことが、明治3年の『新刻書目一覧』(大 学刊)の序文により明らかになった。
著者の加藤雷洲 [天保4年(1833)~明治28年(1895)]は幕末の幕臣、名は清人(きよんど)、雷洲は号である。『明治画家略伝』などに名を残す画家でもあり、 挿絵を描く。明治2年に横浜製鉄所、次いで内務省地理寮量地課等に勤務の後、文京区で加藤画学校を開校する。一方、仏語に関する著作は『佛語箋』のみであ る。
『佛語箋』は先行論文により村上英俊著『三語便覧』[嘉永7年(1854)序刊、佛英蘭対訳単語集]との関連が指摘されているが、今回両書間の語の関係 を検証するため、振り仮名・漢字・仏語の3種類の表記一致語数を算出した。その結果、『佛語箋』の約60.7%は3表記とも『三語便覧』と一致し、仮名遣 い等の一部変更語数を含めると、一致語数は実に全体の約94%に上ることが判明した。
残りの約6%(192語)は雷洲による編集増補であるが、その内容は方角や曜日、序数詞などの日常語の他に、「ホソギヌ 細絹 Soie finesse*」「ヂノヨキキヌ 重密絹 Soÿefine*」「ヂノワロキキヌ 輕踈絹 Grossoÿe*」など、輸出品目筆頭の絹に関する語を含 んでいる。また、192語中の仮名と漢字は『雑字類編』『改訂増補蛮語箋』などに、仏語は『五方通語』などに依拠している。この他、当時の仏語単語集約 10冊との比較対照を試みたが、いずれも底本とは言えない。おそらく、雷洲の編集は底本に拠らず、まず日本語で語を選び、次に対応する仏語を求めるという 方法をとったのであろう。仏語の綴りに誤りがあり、また独自の和製仏語が散見するのもそれが原因であると思われる。
『佛語箋』は当時の日仏交流を底辺で支えた単語集であり、その一頁一頁に江戸時代後期の語彙を用いて懸命に西欧の思想や文化を理解し消化しようと試みている様相が示されている。今後は漢語や仏音仮名表記の調査も行い、本書の特色をさらに探究したいと思う。      (*は、原表記のまま)

■ 第451回月例会発表(2014年2月22日)

日本におけるアルベール・ロビダ    朝比奈 弘治

アルベール・ロビダAlbert Robidaは19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したフランスの画家・作家・ジャーナリストである。みずから編集長をつとめた『ラ・カリカチュー ル』など多くの新聞・雑誌に諷刺的な戯画や文章を掲載する一方、さまざまな書物に挿絵を提供し、ヨーロッパの古都を探訪しては画文集を作り、自作の絵を満 載した愉快な物語を書き、1900年の万博に際しては古いパリの街並みを大規模に再現するなど、多方面でその才能を発揮した。代表作『20世紀』 (1883)は70年後の世界を諷刺と笑いをこめて描き出した未来小説で、300枚あまりの挿絵で飾られているが、驚くべきことに刊行から1年足らずでそ の冒頭部分が日本語に翻訳されたばかりか、5年後までに他にも2種類の完訳が出版された。明治時代初頭の人々は、近未来の社会を明るく皮肉ったこの小説を どのように読んだのだろうか。ジュール・ヴェルヌJules Verneが人気を博していたことからもわかるように、作品のなかに描かれた先端的な科学技術や、未知の社会・地理・風俗などの描写が当時の読者の興味を 引きつけたことはたしかだろう。また柳田泉などの研究によれば自由民権運動と連動して流行した「政治小説」の一種としても読まれたようだ。その一方、宇田 川文海の序文などを参照すれば、未来社会の風潮としての「金力の跋扈」「女権拡張」などは避けるべき「文明の余弊」とみなされていたこともわかる。
この時期かなりの読者を獲得したロビダだが、すぐに忘却の淵に沈んでゆく。その後の百年間でロビダに触れた文献はごくわずかで、たとえば映画やテレビを 予言した小説として『20世紀』に言及している程度だ。そうした中で唯一この作家を総合的に紹介し、とりわけその絵に注目しているのは渡辺一夫で、さすが と言うほかはない。
20世紀が終わる頃になってロビダは再発見されはじめる。宮崎駿の発想源のひとつとして関心が高まり、2000年にはNHKの番組「パリ・奇想の20世 紀」(および『奇想の20世紀』の出版)が反響を呼ぶ。展覧会、翻訳の出版、さらには都市やエコロジーと関連付けた学術論文も散見されるようになる。現在 のわれわれはロビダの作品に何を見ているのか。まず未来を夢見ることができた時代へのノスタルジーをかきたてるような、優美でレトロな絵の魅力。そして、 便利さ、スピード、経済発展といったものが人間の進歩と幸福の基準とされている現代社会への皮肉で懐疑的な視線ではないだろうか。

■ 第450回月例会発表(2014年1月25日)

1940年前後、動乱期のパリを日本人はどう生きたか    池村 俊郎

明治維新前後から始まる日仏関係史において、フランスが日本の運命を左右したのは一度きりしかない。日本が国家崩壊の悲劇へと歩み始 め、指導者たちが世界情勢を読み違えていくきっかけとなったフランスの事変。それこそ、1940年夏、ドイツ軍の前にパリが「落城」し、フランス降伏が宣 言されたときにほかならない。
当時パリに滞在した日本人の体験談や証言は数多くの出版物として残されている。ただし、これらの歴史的証言を幅広い国際関係史の枠組みに置き、とらえ直す試みはあまりなされていない。
パリ陥落の時、在留邦人は推定で約400人。その後帰還船で日本へと去り、日米開戦直後の42年1月には残留邦人123という記録が残る。2003年当 時、パリで健在だった画家・関口俊吾、元通訳・チェルビ菊枝の両氏が、あの時代を知るたった2人の日本人と知り、彼らの証言を録取した(自著「戦争とパリ  ある二人の日本人の青春 1935‐45」(彩流社)にまとめたが、2人はいずれも証言後パリで死去)。
彼らが初めて渡仏した1930年代、世界中から文化芸術の才能が謂集したパリには、ある種の普遍的価値観を共有した文化空間が存在した。絵画とフランス 語を学ぶため、それぞれ渡仏した2人の証言も十分にそれを裏づけていた。にもかかわらず、時代は世界戦争へと向かい、祖国日本も彼らの人生も時勢の濁流に 押し流されていく。
独仏戦線の急展開を前に、当時の仏外交は同盟国の英、頼りの米国にどう働きかけていたのか。直後に仏印進駐を決定し、日米開戦へと踏み出していく日本に 悲劇回避のヒントはなかったのか。フランスと日本の運命の糸がつながった稀有の瞬間というべきパリ陥落の日を、新たな視点で見直す必要性を痛感する。
歴史が過去との対話であるならば、40年夏のパリにはいまなお数多くの問いが残されたままと思えてならないのである。

■ 第449回月例会発表(2013年12月21日)

小林秀雄における日本語の問題―『本居宣長』の「言葉」とフランスの間―    立花 英裕

小林秀雄は『本居宣長』をライフワークとして、10年以上の年月をかけて完成したが、この執拗さの裏には、いかにして日本語による思考 は可能なのかという問がある。ところで、本居宣長は、「唐心」を排し、日本語の内的調和性を回復させようとした人だったが、そこに、思考に身体性を与える ための言語的倫理性を問い続けた小林との接点がある。本発表では、次の2点を主に論じた。(1)小林の言語思想は、フランス文学、とりわけ象徴派の言語体 験に根ざしているが、それを日本近代化の文脈の中に置く必要がある。(2)『本居宣長』では、古代日本の知識人が漢学から出発して、どのようにして思考の 道具としての日本語を練成したかが論じられている。
小林秀雄は、フランス象徴派の言語体験を出発点として日本語を考えたが、言語的「肉感」をもった思想という、その根本的要請は、日本象徴派の詩人たち、 たとえば蒲原有明に見られるような努力、詩語に近代詩にふさわしい陰影を与え、思想的な暗示をも含意できるように試みた努力を継承したとも言え、幸徳秋水 を死刑にした大逆事件によってフランス文化受容が変質した文化状況に置いてみて初めてその射程が見えてくる。折口信夫は小林のランボー (Rimbaud) 翻訳を評することから日本象徴派を論じ、「思想と気分との深い融合」を実現する古語使用の必然性を指摘した。このような和語や古語の近代における再生要請 は、『本居宣長』の隠されたテーマに繋がっている。小林は、自由に表記・思考するための散文としての和文を最初に完成した者が紀貫之だとする。だが、漢文 という他者性が深く浸透している日本語の宿命も同時に露わになっていく。小林秀雄は、日本語のクレオール的性格に遭遇し、朝鮮語と比較する必要を感じるの だが、その問題に深入りすることは遂になかった。

■ 第448回月例会発表(2013年11月30日)

ポール・クローデルと日本 ― 俳句との関わりをめぐって   中條  忍

1921年11月に駐日フランス大使として来日したクローデル(Paul Claudel)は、駐米大使として離日する1927年2月までに俳句風の短詩172句を書き、日本で出版している。最初の出版は1926年10月に出た 『四風帖』で、クローデルの短詩に冨田渓仙が絵を添えた扇面4葉からなる詩画集である。2番目の出版は1ヶ月後の11月に出た『雉橋集』で、これも冨田渓 仙との共同作業による詩画集であるが、扇面の数は36葉に増え、短詩20句を収めている。3番目の出版はクローデルの離日後の1927年12月に出た折り 本仕立ての『百扇帖』で、有島生馬の揮毫による漢字2文字が添えられた短詩172句を収録している。
短詩を記すにあたりクローデルが利用したのは、中国勤務時代に知った老子の空無と魔水と見ていた墨汁である。空無は余白となり、墨汁は墨書に変わり、一方は沈黙のように言外の意味を暗示し、他方は絵画のようにそれを形象化することになる。
短詩に見られる綴り字の異常な分切(q / uiなど)や、アクサン記号や句読点の別置(moitie / ´,fumé / e / . など)は、隠れた意味を噴出させるためであると同時に、詩句を小刻みに切ることによって多くの余白を生むためである。こうした書記法の底流となっていたの が、漢字に関するクローデルの解釈である。彼は、漢字を構成する画の1つ1つに意味があるとし、フランス語の単語の1文字1文字を画と見なして意味を持た せているからである。
この点、クローデルの短詩は、当時フランスで話題となっていたハイカイの動きからほど遠い。彼はこうした独自の書記法を通して、揺れ動き移り変わる、は かない生命の一瞬をうたいあげ、その一瞬を永遠化していったのである。最終的に『百扇帖』にまとめられた短詩は、まさに日本に生き日本と一体となって生ま れた貴重な記念碑であると言える。

■ 第447回月例会発表(2013年10月26日)

日仏修好通商条約第21条・第22条をめぐって   楠家 重敏

1858年調印の日仏修好通商条約の第21条・第22条には駐日フランス公使館・領事館から幕府に送付する文書は5年を経過したのちは フランス語で書かれることが規定されている。その猶予期間にはフランス語文書に日本語のカタカナ文書が添付されることになっている。このカタカナ文書を作 成したのは公使館に臨時に雇われた宣教師のジラール神父(Girard)であった。ジラール神父が公使館を離れた1861年以降は、フランス語文書ととも にこれを蘭訳した文書を幕府に送っていた。これを行っていたのは公使館の外交官であった。1864年にレオン・ロッシュ(Léon Roches)が公使に着任すると日本語文書を作成できる宣教師のカション神父(Cachon)を臨時に雇った。そして、1866年になると、条約の猶予 期間も過ぎているので、幕府への送付文書はフランス語だけになった。これは明治以降も続けられた。結局、フランス公使館では、臨時雇いの宣教師に任せきり で、日本語を読み書きできる外交官は育たなかった。
一方、イギリスは日英修好通商条約の第21条の規定に従って、調印後5年間は英語文書とその蘭訳を幕府に送付していた。駐日イギリス公使館は日本語学習 の必要性をはじめから痛感していた。まず、アレキサンダー・シーボルト(Alexander Siebold)が日本語の口語をマスターし、ついでアーネスト・サトウ(Ernest Satow)が口語にも文語にも精通するようになった。イギリス公使館では日本語のできる外交官が数多く育ってきた。かくして、幕末において、イギリスと フランスの情報収集能力の差が明白となった。

■ 第446回月例会発表(2013年9月28日)

久生十蘭「蝶の絵」・1930年代巴里の日本人   中島 裕之

久生十蘭(1902~1957)の短編小説『蝶の絵』(1949)で登場人物の一人がチット・スキーパァ(Tito Schipa 1889-1965)の「マリポサ(蝶)」(1922)というレコードをかけ「三十年代にフランスにごろついていた連中のなかには、忘れられぬ思い出を もっているのもたしかにいるはずだ」と言う。レジオン・ドヌール(シュヴァリエ)も授与された “テナーのプリンス” であるイタリア人がスペイン語で歌うこの曲がフランスでいつ、どの程度流行ったのか、或はその真偽すら論証するには至らなかったが、1929年12月から 1933年5月頃までフランスに滞在した十蘭がこれを耳にした可能性はある。
『巴里の雨』(1949)の舞台は1939年のパリ、街角には「遥かなティペラリー It’s a long way to Tipperary 」や「マデロン Madelon」といった前大戦時代の流行歌が流れている。自らマンドリンやピアノを演奏する十蘭は音楽に造詣が深く、1943年に海軍報道班員として南 方に赴いた際にはスラバヤで民謡(コロンチョン)を聞けば「みないくぶんパソドーブル(スペインの舞曲)やタンゴに似ている」と書き、ジャワではギターで Torroba(スペインの作曲家)の曲を弾いたり、El Panadello(メキシコのヒット曲)を歌ったりしている。
『巴里の雨』に出てくる「クラマールの広瀬のヴィラ」では長女がハープを弾いているし、代表作の一つ『予言』にもハープが登場する。十蘭と恋愛関係にあったとされる、佐伯祐三の姪、杉邨てい(1913~1944)はパリでハープを学び、帰国後演奏家として活躍している。

■ 第445回月例会発表(2013年7月27日)

思想史と評伝のあいだ - オーギュスト・コント論第二章   今井 隆太

オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie Francois-Xavier Comte, 1798-1857)は日本では、ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)の翻訳『自由之理』(中村正直、1872 = M5)以来、自由主義と実証主義の徒、そして社会学の開祖として知られていた。
ところが大正デモクラシーを経て1920年代に入ると、関心の様相が変化する。米田庄太郎(1873-1945)は『恋愛と人間愛』(1923)で、コ ント自身の生涯を二つに分かつ分岐点への関心を示した。また、石川三四郎(1876-1956)はコントのテキストを日本語に移した。
新しい世代にもコントへの関心が芽生えた。1935年、清水幾太郎(1907-1988)が問題提起し、本田喜代治(1896-1972)が掘り下げた 批判に対して、新明正道(1896-1978)が応える形で、相次いで著書を世に問うた。新明によれば、コントは社会学の始祖ではない。その社会的認識は 近代自然法論やドイツ古典哲学と類似しており、「コントの社会学は歴史的な相対性のなかに解消され終わる〔ママ〕」。三段階の法則は、先験的な独断を歴史 に当てはめたもので、実証主義にも疑念を呈した。彼の社会有機体説の本質は、進歩よりも秩序を重んじる点にあり、これは全体主義に通じる。コントの実証主 義は事物の本質を解明せず、現象を以て事物自体に代えている。
奇しくも新明の著書の発行日1935年5月10日、エトムント・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ,1859-1938)はウィーンで、「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」と題する講演を行った。フッサールの警告は、「学問の理念を単なる事実学に還元 し、学問が生に対して持つ有意義性を失わせた」合理主義、自然主義、客観主義の危険性に向けられていた。新明はコントを真に科学的ではないと批判した。 フッサールは、純粋に客観的な科学は存在しないと言った。両者の隔たりは、日本とドイツの地理的隔たりであり、精神的隔たりでもあった。

■ 第444回月例会発表(2013年5月25日)

信州龍岡城 - もう一つのフランス式五稜郭   滑川 明彦

信州龍岡城は、信濃の国と三河の国に領地をもっていた三河奥殿藩の藩主だった松平乗(のり)謨(かた)(大給恒(ゆずる))が、幕末動 乱期に拠点を田野口に移すことを決め、フランス式築城設計を幕府に申し出て設計、築城したものである。この間の経緯については、安政5(1855)年、箱 館(函館)湾内でフランス艦隊のコンスタンティーヌ号の艦長らが諸術調所教授武田斐三郎に五稜郭築城への進言と資料を贈呈したが、武田はフランス語が読め ぬまま江戸表に回送され、蕃書調所きってのフランス派の松平乗謨の目に触れ、乗謨は自分の領地田野口に築城を思いついたと思われる。
龍岡城の田野口は千曲川が貫流する佐久平の谷にあり、さらにその谷を雨川と呼ばれる河川が西走し千曲川と合流している。雨川沿いの道路は上州往還に用い られ、西は千曲川流域に沿った佐久の甲州街道に接続し、東は田口峠を越えて上州下仁田に通じ、中仙道あるいは倉賀野・八丁などの利根川上流部の河岸へと至 る交通・運輸両面にわたる重要な街道である。新陣屋はこの街道を扼し、田野口藩にあっては佐久領支配の拠点であり、五稜郭建設については以後、変更はなさ れなかった。
ところで松平乗謨が江戸蕃書調所にあって、五稜堡城郭図に一瞬、魅せられたのは「黄金比(le nombre d’or)」であったろう。星形の五角形に収斂されているは「黄金比:1対1.618」で、そこにはアテナイのパルテノン神殿をはじめ、その比例美は、五 稜堡のみならず、古今東西に多く例証を挙げることができる。結論として、信州龍岡城はフランス築城書による洋式築城とは言え、その置かれた地理的位置から いって日本の他の城郭にも見られる「四神思想」が垣間見られ、それは和魂洋才の投影である。

■ 第443回月例会発表(2013年4月27日)

ポール・クローデルと日本 — 能との関わりをめぐって   中條  忍

ポール・クローデル(Paul Claudel)の劇作術が大きく変化するのは、駐日フランス大使(1921-1927)として日本に滞在した後である。それ以前の作品では、物語が時間 の流れに沿って進行する。だが、それ以後になると、物語は主人公の死から始まり、主人公の過去が再現されることになる。
この過去の再現のきっかけとなったのは、13年間沈黙を続けていたかっての愛人ロザリー・ヴェッチ(Rosarie Vetch)からきた一通の手紙である。くすぶり続けていた過去の再来であった。
以後、クローデルは過去の再現に関心を持つようになる。彼はその手法を死者のミサに出てくる永遠の書物(Liber scriptus)に求める。永遠の書物には死者の一生が書き込まれている。それゆえ、その読み上げは過去の再現となる。
来日したクローデルをひきつけたのは、複式夢幻能だった。そこでは、死者であるシテが前場でワキに呼びだされ、後場で過去を再現していく。
日本滞在後に書かれた作品には複式夢幻能をお手本にしているものが多い。『クリストファ・コロンブスの書物』(Le Livre de Christophe Colomb)や『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(Jeanne d’Arc au bûcher)では、主人公がシテ役を、解説者や合唱団がワキ役を演じる。過去の再現は永遠の書物の持ち込みとその読み上げによって行われている。それが 『知恵の司の饗宴』(La Sagesse ou la parabole du festin)になると書物の持ち込みがなくなり、台詞には本歌取りなどが見られ、いっそう能に近くなる。
だが、この種の作品を能と言うことはできない。合唱団、登場人物、場面の扱いに差がありすぎる。クローデル自身も「一種の能」、「私の能」、「能の翻案」と呼び、けっして能とは言っていない。とはいえ、夢幻能が彼に与えた影響は計り知れない。

■ 第442回月例会発表(2013年3月23日)

『The Japan Punch』に描かれたフランス人   清水  勲

イギリス人Charles Wirgman(1832-91)が横浜居留地で1862年に創刊した『The Japan Punch』(以下『JP』と表記)は1887年3月まで続いた。全221号、2457頁、各号には平均9頁の漫画と2頁の文章が載っている。登場人物は すべて似顔絵で描かれ、人名を特定できる者も多い。
1882年1月に来日したGeorges Bigot(1860-1927)は、1887年2月から1889年12月までの3年間、風刺雑誌『TÔBAÉ』を刊行していて『JP』と同様に似顔絵入 り諷刺画を多数描いている。とくにBigot来日以降の『JP』には『TÔBAÉ』に登場する人物も描かれている。たとえば、P.Sardaや A.Sienkiwiez公使などである。そのため、『TÔBAÉ』の人物解読に役立つ資料だと思われ、今回はとくに『TÔBAÉ』に多く描かれるフラン ス人を選び出してみた。Mermet CachonやSardaなど登場回数の多い人物もいるので、そうした複数存在作品を入れれば200点ぐらいは描かれていると思われる。
『仏蘭西学研究』39号には「『TÔBAÉ』の登場人物」と題して18人のフランス人を紹介しているので、今回の『JP』のフランス人を加えると40人 ほどのフランス人肖像がわかってきたことになる。『JP』の人物特定はまだ道半ばである。さらに進めば『TÔBAÉ』の人物解明にも役立つと確信する。
『JP』は木版・和綴じ本であるが、1883年12月号から石版・和綴じ本になる。1887年3月号(最終号)には、「月商500円」と書かれ、1冊1 円といわれているから毎号500部は出されていたものと思われる。神戸など横浜以外の居留地や中国でも売られたという。『JP』は『Punch or the London Charivari』(1841年創刊)を見て育ったWirgmanが、横浜で娯楽の少ない生活を送るイギリス人たちに笑いを提供するために刊行したもの で、『Punch』が1843年から使い出した「CARTOON」という言葉を『JP』でも使用している。

■ 第441回月例会発表(2013年2月23日)

アラン「ノルマンディー人のプロポ」の思想と日本人移民   高村 雅一

我が国でアランAlainと言えば『幸福論』が著名であるが、その外にも邦訳されていない テキストは数多くあり、アラン作品の全貌が受容し尽くされている訳ではない。中でもアラ ン思想の基礎を築いたと言える全3083章の「ノルマンディー人のプロポ」は、1906年2月 16日から大戦勃発直後の1914年9月1日までの「ルアン新聞la Dépêche de Rouen et de Normandie」に殆ど毎日掲載されたプロポ(語録)である。8年有半のうち休んだのは40 日程で、平均すると2ヶ月半に1日休んだだけの割合になる。パリのリセでの授業を終えて から毎日執筆する原稿は、きっちりと便箋2枚分で、修正した形跡が殆ど無い凝縮した文体 で書かれており、その内容は政治・経済・歴史・教育・宗教・道徳・芸術などの広範な分野 に及んでいる。その中の1908年10月27日のプロポは、米国における日本人移民についても 書かれていて、アランの思想を理解する上でも次のとおり特筆すべき一章になっている。
日本人移民はアメリカ人労働者を飢えさせているのではなく、実際は米国を豊かにしてい るのであり、アメリカ人労働者の貧困の原因は不公平な分配を行う米国の社会や資本家にあ るとアランは指摘する。アランのこの意見は、暗に1908年の「日米紳士協定」の不合理性を 指摘していると思われる。当初のテキストには日本人移民と共に中国人移民も並列して書か れていたが、1920年刊行の『アランのプロポLes Propos d’Alain』からは削除されている。 何故なら中国人移民については、米国は既に1882年の「中国人排斥法」により、殆ど受け入 れていなかったからであると思われる。
いずれにしても日本人移民を排斥しようとする米国の姿勢を間違いと見るアランの思想は、 具体的な生身の個人や人間よりも、知性のみの働きである数字によって抽象的に思考するマ ルサスの人口論の間違いを指摘している。なお、アランは生物学の仮説である進化論の意義 は認めながらも、社会学(政治・経済・教育)の法則として国や民族という集団に適用させ ることの間違いも指摘している。その間違いは少なからず現代でも見受けられる。

■ 第440回月例会発表(2013年1月26日)

近代日本におけるフランス語(外国語)教育   山崎 吉朗

小学校の「外国語活動」の開始、中学の外国語授業時間数の増加、高等学校の「英語による英語」の授業の開始と、外国語教育=英語教育を巡る動きはめまぐるしい。このようなグ ローバル化=英語化の現在、本発表では、戦前までの近代日本の外国語教育はどのように推 移してきたのか、現在のように外国語=英語だったのかを、高等小学校、中学校、高等学校 について概観した。全部について触れるべきところだが、ここでは紙幅の関係で中学校だけに絞る。
明治2年に「府県施政順序」が発布、翌年には「小学規則」が規定された。注目されるの は指定された学科の「語学」が「英・仏・独・蘭」の4カ国語となっている点である。近代 の幕開けの外国語教育は、英語が中心ではあるものの、複数の外国語で始まった。明治5年 の学制発布で近代の教育制度はスタートする。時間数の指定は最初はなく、明治14年の「中 学校教則大綱」発布で指定される。科目名は「英語」だが、独語、仏語は可と記されており、 時間数は週6時間と規定されている。現在の週4時間を上回る。近代の教育は外国語教育重 視で始まったことがわかる。また英語以外の外国語教育については、前述の独語、仏語に加 え、昭和6年には「中国語(当時は支那語と表記)」、昭和18年には「マライア語」が加わる。
さらに明治時代の外国語教育で特筆すべきは明治19年から27年までである。僅か8年間 ではあるが、中学4年生、5年生で第2外国語を週4、3時間学習することが義務化された。 当時の文部大臣は森有礼、外国語教育を推進したことで知られている。一方、第2外国語を 廃止した文部大臣は井上毅、後に夏目漱石が「過去の日本に於いて最も著しく英語の力を衰 えしめた原因がある。それは確か故井上毅が文相時代のことであったと思う(「語学養成法」 1911)」と評した。
義務教育の中学や、進学率が97%を超えている高等学校と、エリート教育と言われる戦前 の旧制中学を単純に比較することはできないが、現在の英語一辺倒の外国語教育を振り返る 時に、近代の外国語教育の多様化は参考すべきものと言えるのではないだろうか?  なんとかこの外国語教育=英語教育の閉塞状態を打破するために、多様な外国語教育関係 学会・団体を横断的に結びつけることを目的とした一般社団法人日本外国語教育推進機構 JACTFL (http://www.jactfl.or.jp) を昨年12月に設立した。今、結束の時である。

■ 第439回月例会発表(2012年12月22日)

瀧澤敬一氏の遺族を訪ねて-戦中・戦後のリヨン   市川 慎一

『フランス通信』(計十巻)の著者、瀧澤敬一(1884-1965)は第二次世界大戦中、さらには戦後もリヨンに残留した唯一の日本人 である。生没年がしめすように、当人は1965年に他界されている。そのため、わたしのリヨン訪問の目的は同氏の遺族を探しあて、著書を読んだだけではわ からない部分について直接質してみることだった。
ところが版元の岩波書店で調べてもらっても手がかりを得ることができなかった。やむをえずリヨン在住の日本語教師S氏を煩わせ、瀧澤家の住所、電話番号をお調べいただいた(同氏に多謝)。
リヨンに到着早々、駅前ホテルから、Henri Takizawa家に電話をいれると、こちらの事情を察したMme Takizawaは午後4時に自宅を訪問するようにと快諾してくださった。
現在、タキザワ家へ行くにはメトロのHénon駅下車が一番近い。ラ・クルワ・ルッスLa Croix Rousseは二分されていて、富裕層の住む高台はエノンの地名で知られているが、下町はいまも絹織物職人のアパルトマンが林立する。
瀧澤敬一の旧住居は現在義弟C氏が住んでおられ、長男アンリ夫妻は眼下に旧宅が見下ろせるマンションにお住まいだった。
ヴィシー政府首班のペタン元帥は戦後は一転して国賊扱いされたが、ラジオの肉声を聞いていた瀧澤敬一は親しみをもって元帥を語っている。その点を質して みた。アンリ氏らの反応は、当時のフランス人の大半は国難をともに生きた元帥を「国父」のようにみなしていた、というものだった。
次に、戦後いち早く渡仏した作家遠藤周作らが1955年に瀧澤家に招かれた時、アンリさんは一緒だったのか、と尋ねてみたが、その時のことは覚えている が、日本人同士はすぐに別の部屋に姿を消した、とのこと。想像するに思う存分日本語をしゃべりたい父親と仏語を母語にして育った息子アンリさんとは別行動 を取らざるをえなかったようだ。先ごろ、友人からのメールで2012年末にアンリさんは急逝された、という。合掌。

■ 第438回月例会発表(2012年11月24日)

モーリス・パンゲ『自死の日本史』を読む   石崎 晴己

モーリス・パンゲMaurice Pinguet(1929‐1991)は、1958年に、東大教養学部外国人教師として来日、89年秋まで東大にて教鞭を取り続けた。また63年から68 年まで、東京日仏学院の院長を務め、ロラン・バルトRoland Barthesやミシェル・フーコーMichel Foucaultなどを、何度か日本に招聘した。
『自死の日本史』La Mort volontaire au Japon, Gallimard, 1984.(邦訳は、竹内信夫訳で筑摩書房より1986年に発行。澁澤・クローデル賞を受賞している)は、彼の畢生の大作であるが、日本文化の中に見られ る自ら命を絶つ行為を、「意志的な死」Mort volontaireという語で捉え直し、その歴史を跡づけ、その意味と価値を定義しようとする。まず冒頭で、ローマにおいて、市民の自死は正当とされた のに対して、市民に属するもの(女子供と奴隷)の自殺は断罪されたという事実から、キリスト教の自殺の断罪が、まさに人間を「神の所有物=奴隷」とみなす 観念から発しているとの結論を導き出し、さらに、西欧文明をプラトン以来の「真実在」の形而上学に支配される「超越」の文明と定義する。それと対比して日 本を「内在の国」と定義することが、本書の基本的結構をなしている。まさに日本は、ソクラテス以前のギリシアと、ニーチェ以降の西欧思想の苦闘に通ずる、 形而上学の専制からの解放が、先験的に実現している理想の国に他ならない。この故に本書は、優れた日本文化論にして日本思想史・文学史であると同時に、フ ランスも含めた現代思想に新たな示唆をもたらす思想書でもある。
日本文化の自覚のために有益かつ有意的な示唆の宝庫というべきだが、一方でこれが、1980年代という日本の全盛時代、日本が世界第一の強国となると期 待・推測されていた時代の著作であることは、踏まえておかなくてはならないだろう。また日本内外の「日本論」の系譜にこれを位置づけることは、今後、重要 な課題となろう。

■ 第437回月例会発表(2012年10月27日)

幕末期におけるフランスの対日外交の再検討
-ロッシュ外交の「個性」と「個人外交」-   中山 裕史

幕末におけるフランスの対日外交にはロッシュ全権公使Léon Rochesの「個人外交」の色合いが濃いとされる。しかし、ロッシュが日本に着任した1867年5月、パリでは池田長発を正使とする幕府の横浜鎖港談判 使節団とドルーアン・ド・リュイ外相Drouyn de Lhuysとの長時間にわたる交渉が行われ、フランス政府が軍事力を含めて幕府に協力することが決まっていた。これは幕府の批准拒否により「パリ廃約」と 呼ばれるが、秋以降の幕府の貿易規制緩和やフランス政府の対幕協力の大筋はこれに沿ったものと思われる。
ロッシュによる自身の外交の成果は、①横須賀造船所 ②仏語学校設立 ③陸軍三兵伝習であるが、66年と67年における幕府のフランスにおける資金調達 の試みもロッシュ外交による日仏緊密化の象徴とされる。しかし、造船所の建設はヴェルニーVernyの派遣はじめ海軍省が管轄したものであった。そして、 ベイック農商務相Béhicの支援の下、この事業のファイナンスを検討するために派遣されて幕府とアドバイザリー契約を結んだ経済使節団のクーレ Coulletは、ソシエテ・ジェネラルSociété Généraleなどフランス金融界の一部とその実現の途を探った。
たしかに、横浜の仏語学校の設立ではフランス文部省の援助は少なく、ロッシュの個人的努力が大きかった。また、幕府の陸軍整備に派遣されたフランス陸軍 士官達はロッシュが親しい銀行家の駐仏総領事フリューリ=エラールFlûry-Hérardと個人単位で雇用契約を結んで来日したものであった。この二つ は、ロッシュの個人的イニシアチブが発揮された例と言えよう。
しかし、日本からの絹輸入(殊に蚕卵紙)の拡大と幕府への協力で日本国内の安定を図ることは、ロッシュ派遣時にフランス外務省が定めた対日外交政策で あった。ロッシュはそれの実現に努力したのであり、彼が幕閣や徳川慶喜から得た大きな個人的信頼を別にすると、その業績で「個人外交」に帰せるところは多 くなかった。

■ 第436回月例会発表(2012年7月28日)

オーギュスト・コント Auguste Comte と日本人     今井 隆太

『仏蘭西学研究』第38号掲載の論文「日本におけるオーギュスト・コント研究」のあとを受けて、清水幾太郎に先行するコント研究史から、1935年頃に、コント研究が最初のピークを迎えるまでのいきさつを述べた。
社会有機体説に基づく進化論は、社会学の分野ではスペンサーの仕事と見なされている。勿論、コントはスペンサー Herbert Spencer 以前の、社会学創始者である。しかし、日本においては、自由民権論者によって散々、スペンサーが引き合いに出された後に、ようやく大正末年頃からコントに 光が当たる。先鞭をつけたのは米田庄太郎。米田はコントの生涯に興味を持ち、女権論者としての側面を紹介する。次いで石川三四郎が、コントの主著の縮約版 を訳出する。訳者は実は、芹沢光治良。
1930年代半ばにかけて、本田喜代治、新明正道、そして清水幾太郎等のコント研究が相次いで出版される。社会主義研究が禁止された後、コントが再評価 された。これは清水の表現である。ならば、総合社会学と社会主義とは、同義だろうか。同時代の社会学者では、高田保馬はコントに触れていない。米田の弟子 であったにもかかわらずである。高田はその後も、常に反総合社会学の立場を変えなかった。
そもそも高田と、本田、新明、清水らとの間で、総合社会学とはこういうもの、という了解があったろうか。戦後、日本社会学会の新生を記念した学会誌に、 新明と高田の方法論争が掲載された。それを見ると、相変わらずのすれ違い、総合社会学の何たるかにまで、議論が至っていない。そうであるだけに尚更、文献 上で、それぞれの違いが検証されるべきなのである。
おおよそ、以上のことを述べた。とはいえ、ここで述べたことは、憶測に過ぎない。文献的に論証する作業はこれから。とはいえ、ご批判、ご感想を寄せていただければありがたく存じます。

■ 第435回月例会発表(2012年6月23日)

パリジャンが初めて見た日本映画の評価     中山 信子

初めて日本の劇映画を見たパリジャンの反応はどのようなものだったのだろうか、これが本発表の主題である。パリでの日本映画の公開は1926年の 『Musumé』(『嘆きの孔雀』池田義信監督1925年)以後、26年『Le Jongleur dans le rue』(『街の手品師』村田実監督1925年)、27年『Le Mystère du temple Hagui』(『萩寺心中』野村芳亭監督1923年)、29年『Jujiro』(『十字路』衣笠貞之助監督、1928年)と続く。
衣笠貞之助監督の『十字路』は、最初の3本が東洋の新奇な見世物として人々の耳目を集めたのに対し、劇場のメインプログラムとして公開され批評家の称賛 を浴びた。当時最先端のフランスやドイツの映画技法を駆使した実験的作品『十字路』は、欧米の映画館で公開され注目を集めた最初の日本映画となり、ベルリ ンで高く評価されたことが知られていた。しかしこの作品はベルリンに先立ちパリでも公開され、10の新聞・雑誌で16回にわたって取り上げられ、映画研究 書でも言及されていることが今回明らかになった。フランスの批評家は『十字路』の完成度の高さに驚き、その卓越した撮影・照明の技術や俳優の演技を称賛し ている。ただ演技に関しては、フランス人になじみの薄い非「白人」俳優の演技への驚嘆も含まれると思われる。また時代劇であるこの作品は、彼らのオリエン タリズム嗜好を満足させるものでもあった。
こうした評価の背景には、『十字路』が公開された1929年がフランス人の対日感情が悪化する直前であること、また当時のパリは様々な芸術活動が盛んな コスモポリタン的都市で、新奇な芸術作品を受容する土壌があったという事実も看過できない。そして、フランスと日本での『十字路』の批評を比較すると、当 時の日本人が西欧に「見せたいもの」とフランス人が日本に「見たいもの」のギャップ、即ち日仏間の文化的認識の齟齬の実態も明らかになった。

■ 第434回月例会発表(2012年5月26日)

前田正名とパリ万国博覧会 – 〈日本〉の展示と演出     寺本 敬子

1878年パリ万博への日本の参加に、前田正名(1850-1921)が果たした役割は極めて大きいものであった。先行研究において前田正名は、明治時代 の経済官僚として、とりわけ『興業意見』の編纂、また地方産業振興の推進者としての側面が注目されてきた。しかし、前田が日本の殖産興業を推進する最初の 契機となり、大役を得た78年パリ万博での事務官長の任務については、十分な検討が行われていない。本発表では、日仏の万博史料の分析を行うことで、前田 が果たした役割をより具体的に明らかにすることを目的とした。
前田は、約7年間のフランス滞在(1869~77年)を経て、パリ万博への日本の参加を推進するために内務省勧業寮御用掛として帰国した。内務卿大久保利 通は、西南戦争によって停滞した日本の参加準備を、前田に一任した。明治以降、日本の万博参加は殖産興業の一環として政治・経済上の重要な国家事業として 位置づけられていた。前田は、フランスにおいて農商務省次官ティスランに師事し、また78年パリ万博の開催が決定すると、フランス万博高等委員会で運営全 般を学んだ。こうして前田がフランスで得た農業経済および行政の知識、さらに万博高等委員会との密接な関係は、日本の参加準備の進展に大きく寄与した。パ リの万博会場において、前田は日本の〈近代化〉と〈エキゾティスム〉の両方の側面を展示・演出するとともに、〈正しい〉日本文化を伝えることを重視した。 前田は、日本の歴史、社会、陶磁器、漆器に関する単行本および論文をフランス語で発表している。78年パリ万博において日本はグランプリをはじめ数多くの 賞を受賞し、輸出振興の観点からも、一定の成功を収めたと言えるだろう。しかし一方で、フランス政府は、商業主義の影響による日本工芸品の質の低下を懸念 し、批評家は日本が固有の独創性・伝統を失う過程にあるとして〈衰退〉と批判するなど、必ずしも好意的に受け止められたわけではなかった。

■ 第433回月例会発表(2012年4月28日)

F. モーリヤック『テレーズ・デスケルー』の邦訳に関する一考察     藤井 史郎

伊藤整・永松定と共にジョイス『ユリシーズ』の翻訳に携わり、第二次『四季』の同人でもあった辻野久憲(1909~1937)が、堀辰雄 (1904~1953)の好みを受け入れFrançois Mauriac(1885~1970)のThérèse Desqueyroux (1927)を訳出していたならば、『テレーズ・デスケルー』は戦前に日本語で読むことができたであろう。辻野は実際にはLe Baiser au lépreux (1922)『癩者への接吻』、作品社、昭和10年(1935) を選び、戦前の『テレーズ・デスケルー』訳は幻と消えた。英訳は、Thérèse. Tr. Eric Sutton. London, Martin Secker; New York, Liveright, 1928 出版の翌年にでている。
Thérèse Desqueyroux の本邦初訳は杉捷夫(1904~1990)による 『テレーズ・デケイルゥ』、青磁選書、昭和21年9月(1946)である。その後、版元が細川書店、目黒書店と変わり、この目黒書店版をもとに昭和27年 (1952)新潮文庫の一冊として『テレーズ・デケイルゥ』のタイトルで収められた。昭和46年(1971)には、「わずかばかりの訂正」(改版あとが き)とともにタイトルを『テレーズ・デスケイルゥ』と「ス」を加えて変更し改版が出版された。
杉訳以降、『テレーズ・デスケルー』は、昭和38年(1963)、高橋たか子訳、中央公論社、昭和39年(1964)、村松剛訳、角川文庫、昭和41年 (1966)、遠藤周作訳、集英社、昭和53年(1978)、同遠藤周作訳、講談社、昭和57年(1983)、前田総介訳、青山社と続くが、杉訳が中立で 正確な訳文であったためであろう、その後の各訳(前田訳は除く)は杉訳を参考にせざるをえなかったものと思われる。それは杉訳の誤訳までをも引き継いでし まったことからうかがうことができる。

■ 第432回月例会発表(2012年3月24日)

永井荷風が求めたフランス文学     ラインホルト・グリンダ

明治前期の日本に生まれた文豪は、モダンな時代にふさわしい文学を開拓しようとするため、古今東西の文学のなかで自分の道を見つける、というか切り開くし かなかったのだ。永井荷風の道は自然主義以降のフランスに行った。Daudet、Zolaと同時代の自然主義から出発して、Maupassant から Régnier などの象徴主義、Loti の日本エキゾチシズム、ついに Gide や Jaloux などまで、だんだんフランスも現代文学に対して視野を広げて、結局は半世紀以上、フランスの現代文学から刺激も参考も得続けたのだ。
他の作家と比べて、そこで色々の特徴が見られる。例えば、最後まで一つの流派にこだわらず、自然主義から戦後の Aragon などまで、互いに反対する潮流も含めて、大いに発展していくフランス文学とともに進もうとして、消化しようとすること、また、すでに手本にしたものを後に も捨てず、再度にも勉強の種にする傾向、そして、読んだ作家をますます分析的で専門的に参考にすること。最初は一つの小説タイプ(ゾラ)を丸ごと身につけ ようとした努力があったが、次第に、自分から元より書きたいもののために参考にする使い方に変わったのだ。二十世紀フランスの代表作に限らず、大事にされ ていない文学者も頻繁に読み漁ったところから、荷風は非常に勤勉な読書家だったことをうかがえる。
時代にふさわしい小説を書くことを狙い、長男に期待された学校教育などを犠牲にした若い荷風は、その狙いにいつもモデルからの勉強が必要だという信念を 持っていて、プロの徹底的な勉強ぶりを示した。手本はまず花柳小説や演劇・寄席のそれぞれの領域から来たが、上田敏の評論と翻訳から、現代のフランスを紹 介することが日本にどんな価値がありえたか分って、アメリカとフランスの留学も使って、ますます広くフランスの現代文化と親しんできた。大学や文芸雑誌編 集で活躍したあとで第一線から退いて、江戸時代の研究に没頭した時にも、もはやフランス文学との関係が絶たれなかったのだ。荷風が興味を持ち続けた江戸文 学、明治先輩の仕事、十九世紀後半以降のフランスの三分野から、とくにフランスは文学の将来に繋がっていた。現代的な短編小説の道を示したモーパッサン、 過去の時代を愛する抒情性をあらゆる形に現したレニエーなどを通じて、最後にジッドの『贋金づくり』みたいな根本的に違うものも小説の作り方のために参考 にして、更に進歩することができたのだ。
永井荷風の文学的な勉強は、ただの真似に程遠く、ヨーロッパ文化に対して明治らしい熱意を現しながら、当時の小説家にまれな徹底性があった。そんな勉強に最終的に力を尽くしてしまった荷風はまさに文学英雄といってよい。

■ 第431回月例会発表(2012年2月25日)

石川淳とカミュ     中島 裕之

石川淳(1899-1987)がフランス文学に於いてまず惚れ込んだのはアナトール・フランス Anatole France (1844-1924) である。その後シャルル・ルイ・フィリップ Charles-Louis Philippe (1874-1909) の若さに惹かれ、一旦、自らの中でアナトール・フランスを葬る。
そしてアンドレ・ジイド André Gide (1869-1951) の『パリュウド』『背徳者』等に夢中になる。翻訳も刊行した後者に至っては、主人公ミシェルと同じ生き方をしようとさえした。それは書斎から太陽の下に出 た青年の肉体の目覚めなのだが、所詮それは文学的なものだった。   それに対してアルベール・カミュ Albert Camus (1913-1960) の特に初期作品に見られる、アルジェの太陽と海を背景にした青春の肉体は、現実的なエネルギーに満ちていた。これを吸収した石川淳は「陽根のエネルギー」 を発散させるような作品群を発表していく。1952年の『夷斎筆談』に収められた「戀愛について」がその精髄である。1957年の小説『白頭吟』での、女 性と肉体を交わらせた後の爽やかな朝に主人公か感じるプリアップ(豊饒の神、男性器の象徴)の描写にも繋がっていく。
しかし、生涯を通して好んだ(長持ちした)のは寧ろ、アナトール・フランスの職人技や、ジイドの中では『贋金づくり』『法王庁の抜け穴』といったトリッキーで軽みのある小説だったようだ。

■ 第430回月例会発表(2012年1月28日)

ヴィクトル・ユゴー『九十三年』の日本への移入     小笠原 幹夫

ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』は、明治17年に坂崎紫瀾訳演『仏国革命 修羅の衢(しゅらのちまた)』として「自由新聞」に掲載された。紫瀾の訳は、 ブルターニュに上陸したラントナック侯が乞食のテルマルクの住居にかくまわれるところ、すなわち原作の第一部四編第四のところで終わっている。
明治18年、ユゴーの訃報が伝えられると、「自由燈」に17回にわたってユゴー伝が掲載された。この伝記を契機に「自由燈」には『九十三年』の二度目の部 分訳『仏乱余聞 霜夜の月』が連載された。これは原作の第一部六編第一、すなわち国民公会から目付け役として派遣されたシムルダンが王党軍と共和政府軍が 対峙しているドルの町に到着するところから始まり、32回連載されて、ラントナックが火中より幼児を救い出すところで中断されている。
この翻訳の経緯を手掛かりに、自由民権派の作家たちが、いかなる政治理念・文学理念によってフランス革命を捉えようとしたのかという問題を明らかにしたつもりである。

■ 第429回月例会発表(2011年12月24日)

1960年代の工業技術分野の日仏交流     青木 啓輔

1960年代の日本は、東京オリンピックや大阪万博の開催で象徴されるように、高度成長期の直中であったが、他方、東大安田講堂事件、浅間山荘事件や集団 リンチ殺人等に象徴される陰惨な事象も起こっていた。また、ケネディ大統領の暗殺、ロケットの月面着陸、中国の文化大革命、ソ連の雪解けの終焉、ヴェトナ ム戦争の泥沼化等々、世界も揺れていた。フランスは、ド・ゴール大統領の時代。その時代に、日仏の工科系の学生が団体で、ほぼ交互に隔年で相手国を訪問し 合っていたことは注目すべき現象である。こうした交流を中心となって後援していたのは、東京日仏会館傘下で、発表者が直接間接的に関係していた日仏工業技 術会である。同会は当時、フランスの工業技術を紹介する「日仏工業技術」(隔月刊 A4 52~100p)、日本のそれを紹介する仏文誌「Techniques Industrielles du Japon」(ほぼ年刊 A4 60~144p)を発行したり、工業技術関係の講演会をしばしば催したりして日仏の交流に積極的に活動していた。フランスの Groupement Franco-Japonais des Sciences et des Techniques の要請により、最初に日仏工業技術会の後援で、諸企業、研究所、大学等を見学する目的で訪日したのは、パリ国立高等鉱山学校 École Nationale Supérieure des Mines de Paris の学生65名(62年)である。これを嚆矢として、69年まで全6回、電気、機械、航空、農業、土木、物理・化学、商業等の Grandes Écoles の学生が、多いときは180名も、ほぼ3週間滞日した。日本からは、63年に慶応、早稲田、東大、東工大の工科系の学生63名が約一ヶ月滞仏して諸施設を 見学、以後、日本工科系学生国際親善団 MJET (Mission Japonaise des Étudiants Techniques) と称して、1965年、1967年、1969年と訪仏したが、こうした交流を詳細に具体的に報告した。

■ 第428回月例会発表(2011年11月26日)

≪半過去≫誕生 - 明治を作った江戸期の蘭文法研究     岡田 和子

≪半過去≫は、江戸期の和蘭語学習から生まれた由緒正しい時制の用語で、現代文法における過去形を指す。現調査段階では安政 3(1853)年『挿訳俄蘭磨智科』に初出、明治3(1870)年の村上英俊『明要付録』から、Imparfait の訳語として仏語に受け継がれた。明治20年の中村秀穂(慶応大学総長林毅陸の実兄)訳『ソンメル氏仏文典独学』(Edouard Sommer の文法書の直訳)でも、単純過去の≪定過去≫に対し、Imparfait は≪半過去≫として出ている。
江戸~明治期前半の蘭・独・英文法では、過去形が≪半過去≫で、現在完了形は単なる≪過去≫である。なぜなら、和蘭語における≪半過去≫の機能は「過去に おける最前線の現在」を語ることにあるからで、それゆえ幕末の蘭学者は、これを「半分だけの過去」と呼んだ。ところが、欧州で1830年代から「完了」 「非完了」を用いた新時制が始まり、それが明治期の日本で行われるに及んで、明治17年、齋藤秀三郎は英語の実情に合わせて蘭学以来の名称を逆転させ、過 去形を文字どおり≪過去≫、<have+p.p.>を≪半過去≫とした(『スウィントン氏英語学新式直訳』)。後者は更に≪完成現在≫等に変わり、結果、英独語では明治20年代末に≪半過去≫が消滅。この蘭学の遺産を21世紀にまで継承したのは、ひとり仏文典のみである。
ところで、その用法であるが、和蘭語の視点でみると、仏語の半過去は映画における「無声の映像」、単純過去は、そこに挿入される「文字のテロップ」か「音 声による語り」のように見える。和蘭語なら、半過去による語り自体が、強い映像性と臨場感を持って視聴者に迫るであろう。映像のないラジオドラマを想像さ れたい。一方、仏語の半過去は、語りは単純過去に任せて一歩退き、その物語世界を、背後から、具体的に、支えている。半過去の本質は、動作の未完了云々で はなく、「過去における現在」の背景的保障であるように思えるのだが、どうであろうか。
最後に、仏文典の時制を整えた J. des Roches (1778) と P. J. de Bal (1839他) の詳細が不明である。後考を俟ちたい。

■ 第427回月例会発表(2011年10月22日)

祖父川島忠之助が出会った“サムライ日本人”
— 明治15~28年のパリ、リヨン –     川島 瑞枝

川島忠之助は富岡製糸場の通詞を退職してから2年後、横浜正金銀行のリヨン事務所に赴任し、13年間の長きにわたってリヨンで生活し た。彼は約1000通もの公私の手紙と日記を日本に送っている。その中に彼が出会い親しく交流した明治の若き青年達の姿が克明に書かれている。明治15 年、パリのアトリエで山本芳翠が制作中の「裸婦」に出会う。現在この作品は明治13年作と言われているが、実は2年後の作ではないか。宮廷画家として有名 だった五姓田義松との交流もパリのカフェ。私にとっての大発見は、五姓田が明治12年に描いた「横浜亀橋通」の絵だ。ここに描かれた「つるや呉服店」は母 方の曾祖父が立ち上げ、今は銀座松屋となっている店である。明治12年といえば、横浜「関内」で祖父忠之助が「八十日間世界一周」を翻訳し終え、川を挟ん で「関外」では二人の先祖たちが未来のことは何も知らず商売をしていた年。
ギメ博物館に勤めていた今泉雄作との交流は、短くも内容の濃いものだった。食事や、郊外への小旅行、そしてバルム洞窟に二人が残した小刀による名前の漢字。まさに蛮行!!
京都からの留学生稲畑勝太郎も良き友だった。彼は帰国後、カーキ色や海老茶を広め、映画産業の創始者となる。ロンドン留学からの帰り訪ねてきてくれて再会 を喜んで食事を共にした辰野金吾。後年大臣となる本野一郎と上原勇作との長い友情関係。そして旧師ヴェルニー (Verny) 宅を一緒に訪問し大歓迎を受けた若山鉉吉とのこと。
登場人物の数は、130年前の手紙の中にまだまだ埋もれているのである。

■ 第426回月例会発表(2011年9月24日)

世界に認められた日本人画家 西村計雄 (Kéou Nishimura) について     櫻井 幸子

西村計雄は1909年、北海道の小澤村に生まれ、恵まれた自然の中で幼少の頃から絵を描き、やがて画家への道を志し、苦労を乗り越え ながら憧れのパリにおいて、いつしか、世界に認められる日本人芸術家として、藤田嗣治、長谷川潔に続く巨匠となった。東京美術学校(現・東京芸術大学)の 頃に描き始めた油彩画は、豊かな、溢れる才能を開花させ、次々と公募に入選を重ねた。大学卒業後は早稲田高等学校の図工の教師となり、1950年まで、文 展(現・日展)を中心に活動したが、1951年、42歳で単身渡仏し、それ以降、約40年、常に新たな表現を追及しつつ、詩情溢れる独自の画風を築いて いった。
西村計雄の名が、ヨーロッパの国々に知られる契機となったのは、ピカソの画商、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー (Daniel Henry Kahnweiler) との運命的出会いであった。彼は西村の芸術を「詩人であり、造形芸術家であるニシムラは宇宙で動き、透明で神秘的な物語を描き出している。」「知性と幻想 が互いに調和し、純粋さに到達した芸術である。」「生命の源が自然に湧き出ている作品である。」と絶賛した。この出会いを機に、パリの名門、ベルネーム・ ジューヌ画廊、及びマルセル・ベルネーム画廊が西村計雄の活動の拠点となり、計13回の個展を開いた。フランスの美術各紙は西村計雄の作品の重要性と独創 性を認め、「神秘的な啓示」「精神的な光」「記号化された心の鼓動」と賞賛し、高く評価した。パリ国立近代美術館やパリ市は相次いで作品を買い上げた。 1972年にベルギーにおいて芸術最高賞を、1976年、フランスのパルム・ドールを、1977年、パルム・コマンドゥールを受賞した。1972年、作品 「ヒロシマ」300号を広島市に、1979年から1986年にかけて制作した連作「戦争と平和」300号、20点を、沖縄平和祈念堂に寄贈した。戦争の悲 しみの涙と平和への希求を感じさせる注目すべき作品である。2000年12月4日、東京にて逝去、2007年、西村計雄の命日に日本人画家として初めて、 パリ6区、グランゾギュスタン通り15番地に記念プレートが設置された。

■ 第425回月例会発表(2011年7月23日)

日記として読む小説
— ピエール・ロティ『マダム・クリザンテーム』をめぐって —     伊藤 愛

フランス文学史において、ピエール・ロティ (Pierre Loti, 1850-1923) はしばしば異国趣味の域に止まった作家として位置づけられてきた。だが、パラテクストにおいて日記として提示されている『マダム・クリザンテーム』 (Madame Chrysanthème, 1887) をその献辞に従って日記として読んでみると、異国とは別のテーマが見えてくる。
ベアトリス・ディディエの『日記論』で提示された「日記」の特徴と照らし合わせると、『マダム・クリザンテーム』において、日記体の語りは終始維持さ れているわけではない。同じく日記として提示されている『アジヤデ』(Aziyadé, 1879) とは異なり、脚色の意思さえ示しており、大浦康介によるとそれは「恋物語」を書くことを周囲から要求されていたことが作用している。小説を執筆する意志が 非日記的要素をもたらしたのだ。
では、なぜ小説ではなく、日記として提示したのだろうか。大浦は「恋物語」を書くことや日本を語ることが不可能なことを告白する場として、日記体を選 択したというが、メタ言説は日記でなくとも可能だ。作品に滞在記の印象を付与することや、日本での滞在中に綴った日記が作品の下敷きになっていることも考 慮できるが、それだけであろうか。
ロティが日記を本格的に綴り始めたのは16才頃だ。『青春時代』(Prime jeunesse, 1919)によると、その目的は憂鬱な現在から愛しい過去へ逃避することで、実際、当時の日記は幼少期の思い出がページの大半を占めている。『マダム・ク リザンテーム』でも同様に幼少期の思い出を想起する箇所があり、その際に半過去形を使用する点も類似している。充実した恋愛を描いた『アジヤデ』には過去 の想起が少ないことや、当初の日記の目的を踏まえると、それはクリザンテームとの憂鬱な生活が原因といえる。幼少期の愛しい思い出や、さらにはトルコでの 満たされた恋愛を綴ることで、陰鬱な現在から逃避したのだ。
『マダム・クリザンテーム』は当初の日記の特徴や目的を受け継いでおり、そのために日記として提示されたが、『アジヤデ』はなぜ日記として提示されたのだろうか。ロティの作品を日記という形態に着目して検討することで、さらに多くのことが明らかになる可能性がある。

■ 第424回月例会発表(2011年5月28日)
日本におけるM.プルースト受容初期    川中子 弘

この難解な作家が、日本にどのように受け入れられたのかという関心の射程は、意外と深く広い。しかしそれはとりあえず、最初の訳者、 紹介者、またその存在の告知者は誰なのかという問題に始まる。この三点の内、翻訳は<明星>1923年3月号掲載の重徳泗水訳「彼女の眠」が嚆矢をなすと いうのが定説である。それは淀野隆三(1953、1958)が指摘し、井上究一郎の詳しい紹介(1971)で追認された。初の紹介は、小川泰一の研究ノー ト(<仏蘭西文学研究>創刊号、1926、6p.)とする見解もあったが、実はこれも重徳がそのフランス社会全般を見渡した二著『現代のフランス』 (1921・11、プルーストへの言及は7行)、『仏蘭西文化の最新知識』(1922・2、言及は7頁半)で、最近最も注目される異才としてプルーストを 論じていたことが千葉宣一(1979)によって判明している。重徳が三つの栄誉を独占したわけだが、これは決して偶然ではなく在仏七年にわたるジャーナリ ストの強い知的関心の賜物だったように思われる。
しかし本格的な翻訳は、淀野と佐藤正彰共訳『スワン家の方・1』(1931、223p.)で緒に就く。それから五来達訳の5巻(1934・ 9~1935・1)が登場するまでの四年程は、プルースト受容の高潮期を画した。その周辺には有名・無名の仏文学のamateurや意気込み高い新進の作 家たちが控えていたが、流行という逃れがたい熱病に彼らが罹っていた側面も見落せない。今から見るとやや意外な顔ぶれが怪物に立ち向ったのだ。川端や横 光、また堀辰雄などはさて措いて、小林秀雄(原書で)や梶井基次郎、太宰治(共に翻訳で)なども一時敬虔なproustienだった。山内義雄がスワン訳 稿6~700枚(未刊)を出版社に渡したのは1926年頃である。
ところがこの熱気は1935年初頭、一挙に衰退する。以後若干の例外を除けば、1953年の初の全訳企画まで低迷期が続くが、これが単に戦争のせいなのかどうかは検討を要するところだろう。

■ 第423回月例会発表(2011年2月26日)
『学問芸術論』と『非開化論』    飯島 幸夫

中江兆民の『非開化論』(1883年、明治16年)は、ルソー (Jean-Jacques Rousseau) の『学問芸術論』(1750年)第一部の三分の二ほどの部分訳である。残りの三分の一は訳出されず、第二部は、翌年土居言太郎訳が刊行された。土居訳は癖 のない逐語訳でほぼ原文通りだが、兆民訳は原著とはかなり異なった印象を受ける。
ルソーの『学問芸術論』と比較した上での兆民訳『非開化論』の特徴は、
1.西洋の綿々と論理をつないでいく思考・表現の仕方とは異なり、簡潔にして気力のこもった漢文-「一言以て之を蔽う」という書き方である。
2.「開化」という言葉を用い、読者の意識をフランスから明治の日本に移し、ルソーが言っていることを、当代の文明開化にあてはめる。
3.「文芸とは開化の功績であって、徳義を害するものである」という、原著をもとにして自分で出した結論を、著者に先回りして言ってしまう。
4.「政府の暴虐」という言い方を用い、政府に対して批判的である。
5.悪徳の隠蔽・風俗の頽廃は「今日のいわゆる文明開化の風習である」といった、単純で分かりやすく、断定的な言葉を何度も繰り返す。
6.興味深い逸話を入れ、学問的というよりは、むしろ劇的な効果をねらった読ませる文章を書く。
以上、様々な特色のある『非開化論』は、現代の翻訳という概念の枠をはずれ、独創性の味わえる著作となっている。「文章ハ経国ノ大業、不朽ノ盛事ナ リ」という曹丕の『典論』の一節を、兆民は好んで墨書した。曹丕と違い野にあった兆民にとっては、この一節は、文章には社会を動かす力があるということに なるのかもしれない。曹丕が政治家にしてかつ文人であったように、兆民は政府を攻撃する論説を書くのにも自己の文才を傾注した。『非開化論』の魅力は、漢 文調の気迫のこもった躍動する文章に負っていると言ってよいであろう。

■ 第422回月例会発表(2011年1月22日)
日本写真史黎明期の俊秀たち    中川 高行

わが国写真史の先駆者上野彦馬、内田九一等に当時の最先端写真技法を伝授した来日写真家としてRossierの名は早くから知られて いた。上野23歳の筆になる「舎密学必携」(文久2年)は、明治初年まで化学の教科書として各地の藩校で使用されていたと言われているが、この中の写真に 関するページは、ほぼRossierの教授内容そのままであったらしい。要するに、その後のわが写真界の発展の礎を築いた人物のひとりとして Rossierの名を外すことができないというのが斯界の常識である。ところが、彼の人物像については英国のステレオカメラ・メーカー、Negretti & Zambra社から極東情勢の取材を委託されて来日した「仏人写真家」という程度のことしか、最近まで分かっていなかった。数年前Rossier研究に展 望を開く新発見を行ったのは英国人研究家Terry Bennett氏である。今年に入り横浜開港資料館・斎藤多喜夫氏の紹介記事(「開港のひろば・86号」)を目にするまで私はこのことを知らなかった。う かつであった。Rossierなる人物は実はフランス人ではなく、スイス人(1829年、Fribourg州Grandsivaz生まれ)であること、 1855年から62年まで7年間極東で取材活動に従事したあと帰国、その後故国でスタジオを2軒経営、2度の結婚をし、2人の息子に恵まれたこと、何らか の目的でパリに渡るがその地で客死(没年不明)等々の基本データをBennett氏は ’06年出版の『Photography in Japan 1853~1912』に記している。つい最近の発見といっても、すでに6~7年が経過しているので、その後新たな発見が追加された可能性も大いにあるが、 今回の発表では、残念ながら ’06年までに明らかになった諸事実を雑然とご紹介することしかできなかった。我々にとって最大関心事はもちろんRossierが日本において過ごした短 い期間の足跡をできる限り突き止めることであるが、この点では専門家の間でもまだ大した進展はみていないようだ。Bennett氏の著書により数人の興味 を惹かれる来日フランス人カメラマンの存在を教えられた。これも今後の課題である。

■  第421回月例会発表(2010年12月25日)
滑川明彦先生の研究姿勢
-新著にみる仏学史へのアプローチ-  山本 慧一

新著『ことばと文化-日欧の出会い』(2010年10月発行)は、「第Ⅰ部 日欧の比較」、「第Ⅱ部 日欧の交流」、「第Ⅲ部 日欧の出会いと文化」の3部から成り、前著『ことばと文化-日仏の出会い』(2007年10月発行)よりもさらに研究領域が拡がっている。
新著の中で、先生が特に力を入れられた論考は、私の考えでは、「第Ⅰ部」の『フランスにおける日本学』(pp. 95~129)、『フランスの風土と文化-言語-』(pp. 130~151)、「第Ⅱ部」の『ことばと文化-比較韻律論の試み-』(pp. 174~199)であり、これらの論考の中に、先生の研究姿勢ないしは仏学史へのアプローチの特徴が示されているように思う。
要約すれば、1) 先生の学問的出発点が、当時としては非常に珍しく「フランス語学」であったこと。2) したがって、先生の諸論考が「緻密、綿密であり」、「実証的であった」こと。3) さらには、研究を進められるにつれ、常に「ことばと文化との関係を追究」されたこと。4) 必要に迫られて英語を懸命に学ばれたため、研究に対する「視野が広く」なり、「他学会にも積極的に参加」されて、「該博な知識」を得られたこと。5) 特にR.ヤーコブソンの『詩学』を研究されて、大学院時代からの研究テーマであった文体論・韻律論を『(日仏)比較韻律論の試み』としてまとめられたこ と。6) 「記録の重視」などが挙げられよう。
『日欧の出会い-函館五稜郭-』の「まとめ」で、《思うに、文化交流史とは2国間の交流のみの観察では視野は限られる。言語学でいう通史的であるとと もに、共時的な座標軸のとりかたが必要であろう。日欧文化交流史、そして広義には洋学史、比較文化史的視点が必要となるゆえんである。》と記しておられる が(p. 262)、次回刊行予定のテーマ「五稜郭の研究」では、こうした考え方に立脚した論考が示されるものと期待される。

■ 第420回月例会発表(2010年11月27日)
メルメ・カションの謎    Le ROUX Brendan

日本において良く知られているにもかかわらず、多くの謎を残してきたフランス人宣教師のメルメ・カション (Eugène Emmanuel Mermet (de) Cachon) に関する今回の発表を通じて、パリ外国宣教会資料室所蔵の新しい史料を紹介しながら幾つかの問題点を確認した。
1829年に生まれたメルメは、1852年にパリ外国宣教会の神学校に入学してから、1854年6月に司祭に叙階され、同年8月に日本へ出発したが、 琉球に滞在することになった。1858年10月に最初の日仏条約の交渉にフランス全権グロ男爵 (Jean-Baptiste Louis, Baron Gros 1793-1870) の通訳を務め、1859年11月から、一時帰国をした1863年6月頃まで箱館に滞在した。その滞在地点は、パリ外国宣教会資料室所蔵の史料と、『続通信 全覧』のなかにある「箱館在留仏人カシュン借地一件」という史料を照らし合わせてほぼ確定することができた。
また、先行研究において「日仏交流の父」の一人として位置づけられているメルメの素顔は、直筆の書簡の分析から見てそれほど「文化人ないし知識人」で はないことも証明できた。しかし箱館に滞在した時期の執筆活動は確かに豊富で、今まで知られていたアイヌに関するパンフレット(1863年刊行)と「日英 仏辞典」(1866年に出版され始めたが、その費用はメルメが一時帰国した時に既にフランスの外務省とのやり取りの中で話題になっていた)の他に、「日本 のヒエラルヒーに関する研究」という興味深い記事も紹介した。更に、キリスト教の布教が行えない状況が続き、メルメは貿易(毛皮の提供)にも手を出したこ とを明らかにした。
しかし今回の発表ではメルメの日本での活動の前半しか扱うことができず、これからもメルメに関する謎を解き続ける必要があると言わざるを得ない。

■ 第419回月例会発表(2010年10月23日)
フランス第二帝政期の外務省と外交官
-ロッシュ外交の背景-   中山 裕史

フランス第二帝政期の外務大臣は、ヴァレウスキーを除き、職業外交官出身者が務めた。ロッシュが駐日公使を務めた時期に外相であった ドルーアン・ド・リュイもE. Drouyn de Lhyuisもムスチエmarquis de Moustierも外交官出身である。しかし、彼らも政治家の外相と同様に、外務省の政治局判断とは相対的別個に外交政策を推し進めた。その上、ナポレオ ン3世も独自の外交を行った。
また、外務省で扱う「外交」とは欧州各国との外交関係であり、政治局の「北欧部」と「南欧・オリエント部」が中心であった。そこで、これら諸国(英・ 墺・西・伊・露・土)に6人(66年からベルリンも)の大使が置かれた。こうした地域管轄は、領事・商務局の組織においても同様であった。日本関係は、ア ジアでフランスの公使が駐在したペルシアと中国とともに、「アメリカ・インド=シナ部」が管轄した。外務省は職員が約250名であったため、多くの研修生 と現地雇員とともに運営された。
フランスの駐日外交代表部は1861年から全権公使が統括するところとなったが、スタッフは少なかった。ベルクールG. Eugène de Bellecourtはパリ外国宣教師会の宣教師に宗教活動をしない約束を香港で取り付けて単身来日した。ロッシュLéon Rochesが着任した時も駐日代表部は長崎領事を無給のデュリDuryが務めるほかは、ロッシュ自身が神奈川領事を兼務し、事務官のド・ルペルスde Lepeyrousseと蘭語通訳のヴァン・デル・ヴォーVan der Vooの4人で駐日代表部を構成した。
当時はパリと江戸の連絡に片道3か月を要し、帝国郵船の船便も月に一便であったため、日本公使館は本省から極めて疎隔されていた。これが現地駐在公使 の「個人外交」を可能にし、同時に、それを不可欠なものとした。しばしば、ロッシュの対日政策は彼の「個人外交」として批判的に扱われるが、当時のイギリ スの対日外交もパークスがほぼ決めており、日本がヨーロッパから遠隔の地であったことの象徴といえる。

■ 第418回月例会発表(2010年9月25日)
フランスにおける日本語教育  SUDRE Florence-容子
塩田 明子

日仏の継続的交流は1858年の日仏修好通商条約締結に始まる。1862年の、日本のパリ万博参加をきっかけに、日仏交流が活発化した。パリの東洋語学校に日本語講座が開設されたのもこの時期で、本格的な日本研究が始まった。
フランスでの日本語教育を中心となって進めたのは、レオン・ド・ロニー Léon de Rosny (1837-1914)である。ロニーは東洋語学校で講師をつとめ、日本からの訪欧使節団の一員だった福沢諭吉と交流し、さらに国際東洋学者会議を創立。 この会議で、日仏間に学術上の交流がもたらされたと言われている。
他に日本語教育に貢献した人物として、ルネ・シエフェルRené Sieffert (1923-2004) を挙げることができる。シエフェルは、東洋語学校の学長をつとめ、『源氏物語』などの日本文学を仏訳し、フランスでの日本語教育を本格的にスタートさせた 人物である。
日本語教育は、幕末の開国期の後には、(1)第二次世界大戦後に日本の映画や文学が紹介された頃、(2)日本経済が著しく発展した時期、また(3)バブル崩壊後にも、マンガ・アニメ・日本食などが人気を集めると、その需要が高まった。
フランス各地方に日本語教育が普及し始めたのは(2)1980年代で、高等教育において、また中等教育においても広がりを見せた。また1984年に は、Agrégation de langue et culture japonaises(中等教育教授資格試験)も創設され、1990年代にかけて日本語教員の地位が一応安定したことで、日本語教育の地盤が形成されたと いえる。
しかしその後は、CAPES(中等教育適合資格)創設等の制度上の飛躍的発展は見られなかった。2000年代以降 (3)再び日本語学習者数が伸びる中、2005年、日本語教員や日本研究者が中心となってフランス日本語教育委員会を設立。在仏日本大使館や国際交流基金 と連携し、日本語教育の環境を整えるために活動し、中等教育日本語プログラム(学習指導要領)が発表されることになるなど、成果をあげつつある。
Rosny時代には、教材の中で中国語を引合いに出し日本語と対照させる記述が多くみられた。このやり方は現代の教科書にはみられないが、今度は、言語普及環境という面で、同じアジア言語である中国語の現状と日本語のそれがしばしば比較されている。

■ 第417回月例会発表(2010年7月24日)
ビゴーと日本近代漫画    清水 勲

ジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot 1860-1927)はフランス漫画の黄金時代に育ち、ドーミエ(Honoré Daumier 1808-79)、グランビル(Jean-Ignace-Isidore Gérard Grandville 1803-47)、ガバルニ(Paul Gavarni 1804-66)などの作品を見て育ったことが彼の風刺画の基盤になっている。
明治15年に来日したビゴーは、イギリス人ワーグマン(Charles Wirgman 1832-91)が月刊誌『ジャパン・パンチ』を成功させているのを見、自身も居留地を拠点にして各種漫画雑誌の出版に関わっていく。また、『おはよ』 『また』『クロッキ・ジャポネ』などの銅版画集の刊行は、初代五姓田芳柳の長女である渡辺幽香(1856-1942)に影響を与える。それを裏付けるのは 渡辺家旧蔵の幽香銅版画作品帳である。
それは、38枚の手彩色された銅版画集のようにも見える。冒頭の10枚はビゴーのよく知られた銅版画で、残りの28枚中6枚は、幽香の三つの画集(『寸陰漫稿』『大日本風俗漫画』『日本かがみ』)のいずれにも入っていない。
ビゴーは『ボタン・ド・ヨコ』や『警官のたぼう』の手彩色版を出している。現物未確認だが、ビゴーあるいは幽香の銅版画集にも手彩色版が作られたので はないか。そして、この作品帳はその見本帖として作ったものではないか。全図の手彩色は冒頭10図をえがいたビゴーが担当したように見える。幽香作品にも 英文のキャプションが付けられ、外国人に販売する目的で作られる画集だったことがうかがえる。また、最初にも言及したように、ビゴーと幽香の合作の手彩色 銅版画集そのものなのかもしれない。少なくともこの作品帳は、ビゴーと幽香には交流があったことを物語る貴重資料だといえる。
また、ビゴーと小林清親・長原孝太郎らとの交流やビゴーが来日直後に母親に送るために横浜の写真館で撮影した写真「侍姿のビゴー」が“19世紀のコスプレ”であることを他の写真や絵画資料とともに紹介した。

■ 第416回月例会発表(2010年5月22日)
ジャポニスム、万国博覧会、そして人間動物園    青木 博子

1889年のパリ万国博覧会は、博覧会の歴史に汚点を残すこととなった「人間動物園」がはじめて万国博覧会に登場した博覧会である。 博覧会会場の一隅に、セネガルやニューカレドニア、ベトナムなどの植民地から連行されてきた人々が、柵で囲われた集落の中で、博覧会開催中、数ヶ月にわ たって生活して、「未開人」という見世物になった。この発表では、万国博覧会で「人間動物園」が開催されるまでの経緯をみた。
1880年から1895年まで、フランスは植民地獲得に邁進していた時であり、植民地での支配を正当化するために、西欧人と非西欧人との間に境界線を 引いたのである。柵の向こうにいるのは野蛮で未開な人たち、西欧によって救われ支配されるべき人たちであり、柵のこちら側にいるのは文明人であり、非西欧 に文明と進歩をもたらす西欧である、というわけである。
ところが皮肉なことに、1889年のパリ万国博覧会の開催中、パリ万国博覧会を見るためにフランス内外から集まった人々の関心を集めたのは、オデオン座で上演された「日本の芝居」という副題のついた「微笑の女商人」(ジュディット・ゴーチエ作)であった。
この作品は、当時の限られた情報をもとに、遠い異国の日本への幻想を膨らませたものにすぎないのであるが、爆発的な成功をおさめた。
さてそうなると、優れた西欧と劣った非西欧という、硬直した二項対立図式にとらわれていた人のなかには、「日本の芝居」や日本へのすさまじい憎悪をむき出しにする者もあらわれた。このことについても発表では触れた。

■ 第415回月例会発表(2010年4月24日
ル・クレジオの彷徨と文学
-ブレターニュ、モーリシャス島、アフリカ、メキシコ、日本をめぐって-   浜田 泉

ル・クレジオ (Le Clézio) の祖先は、フランス・ブルターニュの出身(ケルト系)である。6代前の祖先は、仏革命下、愛国者-共和国側-として志願兵になるが、革命や戦時の有様に幻 滅して、1790年、長髪禁止令を契機に除隊する。インド洋逃亡途中、モーリシャス島に上陸し、家族らと以後住みつく。以上は半自叙伝風小説 Révolutions〈2003〉(邦訳、『はじまりの時』)の中で物語られる。この小説は全体が時や場を自在に往き来して描かれる。作者の祖父は『黄 金探索者』〈1985〉に描出されるが、夢想(島の昔の海賊の財宝探し)を沈滞的現実を破る梃子にして実行に移したロマン派風破滅型人物である。父は医師 で、作家がニースに過ごした幼年時代当初、アフリカの英領ナイジェリア勤務で不在であった。当時の植民地行政に怒りを覚え、専ら黒人原住民たちの医療を広 大な地域で独力で行った。この父の存在感と幼児訪れたアフリカの大自然は衝撃を与えた。これは後年の60年代後半、メキシコでインディオの文化に触れ、深 甚な影響を受けたことに繋がっていく。デビュー作『調書』〈1963〉は現代文学先端の難解かつ言語実験を極める代表作であったが、次第に西欧近代文明へ の違和と批判は、アメリカ先住民社会との接触、調査を深めるにつれ、形を変え、独自の光彩を放ち出す。16世紀スペイン人コルテスらによる、アステカ王国 征圧の暴虐と強奪の滅亡悲劇が、古記録や遺物により想像豊かに再現される。彼はインディオの神話や自然観にこそ、現代の混迷を解く鍵を見出している(『メ キシコの夢』、『歌の祭』)。『古事記』を高評価し、来日の際は先住民文化のアイヌの地や奄美大島を訪ねた。後者では神道、カトリック、シャーマニスムが 共存する間文化的痕跡に注目した。

■ 第414回月例会発表(2010年3月27日)
幕末・明治初期の対日生糸貿易    滝沢 忠義

幕末から明治初期にかけて、日本の養蚕、製糸についての教育書がフランス語に翻訳されていた。当時日本から発信した稀有な現象であっ た、『養蚕秘録』(上垣守国著、J・ホフマン訳、1848年)、『養蚕新説』(著者不明、レオン・ド・ロニー訳、1868年)、『養蚕教弘録』(清水金左 衛門著、P・ムーリエ訳、1868年)などである。折しもフランスでは蚕に微粒子病が蔓延して絹業界は全滅の危機にさらされていた。ナポレオン3世から幕 府に蚕卵紙を送って欲しいと要請があり、徳川慶喜は1万5千枚の蚕種類を送り届けたので、フランスの生糸業界は一応危機を脱することができた。『養蚕新 説』はフランス政府の命令で出版されたもので、そこには日本の蚕の養育法の優秀さも記されていた。明治政府になってからは殖産興業の必要が認識され、富岡 に器械製糸の官製モデル製糸場がP・ブリュナによって建設され、器械製糸の技術は次第に日本中に広がり、その製品はフランスに輸出され外貨を稼ぐ唯一の産 業に成長した。日本で近代的な鉄道、銀行が誕生し、教育施設も充実したのも蚕糸業のおかげであった。この発表では当時のフランスの生糸事情をふくめ、両国 の経済が蚕糸業を通じて深く交流した事実を紹介した。

■ 第413回月例会発表(2010年2月27日)
レオン・パジェス VS レオン・ド・ロニー
-東洋語学校日本語講座をめぐる経緯-   滑川 明彦

パリの(国立)東洋語学校に1868年日本語講座を開講するに際して、(専任)教授の任用に2人の候補者が挙がった。その一人はパリ 生まれのレオン・パジェス(Léon Pagès)で、フランスの草創期日本学者で、北京フランス公使館付き外交官として当時の清国に在留中、日本におけるキリスト教布教史に関心をもった。パ ジェスの日本研究は中国学から入り、日本での最初の布教に尽くした聖フランシスコ・ザビエルに関わる『聖ザベリオ書簡集』全2巻、1855年を著し、さら にフランス人の視点による『日本関係図書目録』1859年を刊行した。ついで、在日オランダ商館長J.D.クルティウスの『日本文典』をオランダ人J.ホ フマン増訂による文典類を参考にしての『日本文法試論』1861年をはじめ、『日本廿六聖人殉教記』1862年、さらに1603年、長崎版の『日葡辞書』 のフランス語訳『日仏語彙』1868年、『日本切支丹宗門史』と資料編1869年-1870年、その他を刊行、その後の日本学研究の基を開いた。日本に は、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史』全三巻(岩波文庫)がある。もう一人の日本語講座候補者は北フランスのリール出身のレオン・ド・ ロニ(Léon de Rosny)で、1862(文久2)年、徳川幕府からの使節・竹内下野守一行が修好通商条約改定のためフランスに派遣された時、使節一行のうちの福沢諭吉 らに日本語で語りかけたことで知られる。1863年ロニは東洋語学校日本語講師に任ぜられていたが、5年後には正式に教授に任用された。1868年3月 24日『よのうわさ』と題する日本語の新聞を発行したが、1号限りで休刊したもので、日本使節団との交流から得た資料を利用した『日本文集』1863年を はじめ、『日本語考』1865年、『日本語会話案内』1865年、『日本語文法初歩』1873年、白川寅太郎原著『養蚕新説』1866年の仏訳、さらに 『日本詩歌-日本列島の古代、近代詩歌』1871年などがある。1873年にはロニの主唱で第一回東洋学者国際会議をパリで開催し、成果をあげた。 1868年、国立東洋語学校に単に講座名としてのみあった「日本語講座」の公式開設にあたり、日本関係のち密な研究を果たしていた教授職は当然自分に渡っ てくると思われたレオン・パジェスの任用が、結果として20歳も若いレオン・ド・ロニに渡ったことで、レオン・パジェスは深い失意を味わったという。そこ には単に学究的な業績というより、ロニはフリーメーソンの一員であったということが陰ながら有利に働いたのではと考えられるふしがある。一見、唐突なが ら、<ユダヤ>とともに10世紀以上にわたる世界的地下組織としてのフリーメーソンも視野にいれなければ事の推移を見定め得ないであろう、と述べた。本例 会では東洋語学校正教授任用という経緯にすぎないが、幕末、薩長連合偉業には、大量の火器の調達という破天荒な働きをしたフリーメーソンでもあった英人グ ラバーと坂本竜馬との関係も大きな梃子になっていたことも考えられ、歴史理解には表面には表われない裏面史的理解の要を問題提起としてみた。

■ 第412回月例会発表(2010年1月23日)
徳川昭武に宛てたレオポルド・ヴィレットの書簡
-1867年パリ万博の出会いから日露戦争まで-   寺本 敬子

フランス軍人レオポルド・ヴィレット(Léopold Villette 1822-1907)と、最後の将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武(1853-1910)の間には、長期にわたる文通が存在した。しかし先行研究から文通の存在 は知られていたものの、具体的な書簡の内容はほとんど明らかにされてこなかった。またヴィレットについては、同時代の日本側の様々な書簡や記録に言及さ れ、初期の日仏関係において重要な人物のひとりであったが、これまで研究が行われていない。本発表は、全108通にわたる書簡をもとに、ヴィレットと昭武 の文通の内容を明らかにし、二人の交際関係をめぐる日仏交流の状況を解明していくことを主旨とした。
ヴィレットと昭武の交際は、1867年パリ万博の出会いから1907年のヴィレットの死にいたるまで40年の長期に及ぶものであった。昭武は、将軍名 代として1867年パリ万博派遣を命じられ、留学を目的としていた。一方、ヴィレットは当時フランス陸軍の中佐を務めていたが、陸軍大臣ニールの推薦に よって昭武の教育係に任じられた。この昭武の留学生活は、やがて大政奉還および新政府からの帰国命令によってわずか1年半で幕を閉じる。しかし、昭武は 1876年に再びフランスへ第二次留学を果たし、二人は再会した。文通は1881年の昭武の帰国以降に本格的に開始した。全108通の書簡は、日仏両国の 近代化と激動の時代に、それぞれ高い地位にあったヴィレット将軍と昭武の間で交わされた対話を具体的に伝える歴史資料である。また二人の関係は、1867 年パリ万博の公的(政治的)な出会いから、後年は私的な友情関係に発展し、品物の交換や他の友人(渋沢栄一等)も含めた交流が存在した。今後の展望とし て、日仏間の人的ネットワークの広がりとその政治的関係、特に万博に関わった人々に注目して研究を続けたい。* 書簡内容は、寺本敬子『徳川昭武に宛てたレオポルド・ヴィレットの書簡-1867年パリ万博の出会いから日露戦争まで-』上下巻、一橋大学社会科学古典資料センター、2009年。

■ 第411回月例会発表(2009年12月26日)
あるフランス人の旅行記に見られる1881年のジャポン    森本 英夫

エルネスト・ミシェルErnest Michelの『240日世界一周・日本篇』は、1881年8月25日に横浜に上陸し、10月5日に長崎を離れるまでの旅日記である。この著者については 今のところ不明であるが、横浜上陸早々に「貿易商会」に顔を出し、当時この会社に勤めていた本野一郎を通じて、子安(峻)夫人(「扶桑商会」)から華族ク ラブ紅葉館に誘われたり、その後「貿易商会」および「横浜正金銀行」のお偉方から舞妓や芸者を侍らせたお座敷に接待されていることから考えて、フランス貿 易商社の関係者であったのかもしれない。
この時期日本は、租界地の外国人商人を仲介とする間接貿易から直接貿易に転じるべく、次々に新しい貿易会社や銀行を立ち上げていた。ちなみに本野一郎 を介してエルネストが関わったのはすべて明治13年以降に設立された会社であり銀行であった。新しい直接貿易先を得るための接待であったのか、それとも日 本の事情を探るためにエルネストを送り込んだのか?謎が残る。
法学博士でもあるエルネストは二度にわたってお雇い外国人ボワソナードと接触している。初対面の際のボワソナードは、多くの人々に慕われている正義の 男として、拷問の廃止にまで至った挿話を差し挟みながら、その活躍が熱く語られる。しかしアメリカ風の豪邸に招かれ、青銅器や漆器などの骨董品に囲まれて 贅沢な生活をしているのを見て、それが永年喘息のために苦しんでいる法律学者の気晴らしに必要なことであると語るものの、日本に住むすべてのヨーロッパ人 と変わりない姿にしか映らない。
それに比してミシェルが心を打たれたのは、王子製紙工場の得能良介の人柄と労働者の生活や福利厚生にまでも配慮したその経営手腕である。社内貯蓄を奨 励し、無償の医療機関と学校を設置し、そして将来的には年金制度などに行きつくサムライ得能良介の経営法を知り、経営者と労働者が金銭面でのいがみ合いに 終始しているヨーロッパ資本主義との違いを浮き彫りにしている。

■ 第409回月例会発表(2009年10月24日)
アーネスト・サトウの対日情報活動(2)    楠家 重敏

イギリス・ロンドンのナショナル・アーカイブス所蔵のサトウ文書(Satow papers)に’Translations’と題された草稿と印刷物をあつめた史料群がある。サトウが晩年に”A Diplomat in Japan”(邦題『一外交官の見た明治維新』)を書くときに、この史料群を机下に置いていたらしい。近年の萩原延寿『遠い崖』はその副題が示すように 「サトウ日記」やイギリス外交文書を多用したものであった。しかし、その方法論では外交官サトウの姿は浮かび上がるものの、日本学者としてのサトウの軌道 は解明できない。そこで、冒頭の史料群を分析して、サトウに関する新知見を紹介した。ちなみに、この史料群が1868年1月から始まっているのは、同年1 月1日付をもって、サトウが日本語書記官に昇進したことと無関係ではない。
1868年の筆頭の草稿は『国史略』の神代の巻である。戊辰戦争のきっかけとなった「討薩の表」をサトウは1月26日に英訳している。翌日、鳥羽伏見 で戦端が開かれた。3月26日にはJapan Herald 紙に「ミカドの布告文」を英訳して掲載した。さらに4月20日付のJapan Herald 紙の号外の「日本の新しい政治体制」という特集に「三職八局」の記事をはじめとする5本の英訳を投じた。こうしたサトウの草稿や新聞に投書した記事が多数 ある。
日付と掲載紙ともに不明であるが、フランス人外交官メルメ・カションが編纂した『仏和辞典』に関する書評がある。サトウの日記の1867年10月3日 の条には「カションの仏英和辞典を借りたが、どこもかしこも誤りでいっぱいである。大急ぎで書評のためのノートをつくる」とあり、評者はサトウである可能 性が強い。
サトウの情報収集は多彩をきわめた。イギリス外務省に報告書ばかりでなく、横浜の英字新聞のJapan Times 紙、Japan Herald 紙や創刊間もない中外新聞、江湖新聞、太政官日誌に寄稿した。彼の情報収集は速報性にすぐれた。駐日イギリス公使館の外交官以外には、こうしたレベルの活 動ができる者はいなかった。管見のかぎりでは、幕末明治初期のフランスの駐日外交官には日本の新聞を仏訳したケースはない。この時期の対日外交活動におい てイギリス公使館がイニシアティブを握ることができた要因がここにある。

■ 第408回月例会発表(2009年9月26日)
ナポレオン三世と極東外交-グロ男爵とレオン・ロッシュについて-    市川 慎一

去る6月13日に「ナポレオン三世と対外政策-遠隔地メキシコと日本の場合-」と題してわたしは別の発表を行ったが、今回の試みは前 回の二番煎じではない。フランス第二帝政の外交と日本にかんしては、多くの優れた研究がこれまで公刊されてきた。ところがフランス側の研究書を参照する と、当時のメキシコや中国との関係にはふれられてはいるが、日本との関係に言及されることはほとんどないと言っても過言ではない。そこで、これまで日本の 専門家とは若干異なった角度からその問題を再考するのも無意味ではないのではないかと愚考し、管見を述べてみた。わたしの調査で判明した点は、下記のよう なものである。
1) 1858年に来日したグロ男爵は職業外交官だったが、親子三代にわたる画家でもあったこと。とりわけ父は新古典派のダヴィッドの弟子で、ナポレオン一世の戦争画を手がけたことでも知られた人である。
2) 最近、わが国ではレオン・ロッシュにかんする研究が進んでおり、しかも来日前のロッシュが前任地での体験を叙述した『イスラムの32年』も近く翻訳出版さ れると仄聞する。そのため、アラビヤ語通訳、さらには外交官時代のロッシュの経歴についてはわたしのごとき素人が嘴をはさむことを控えたい。ただ、ロッ シュはイスラム諸国においても、その企てが成就したか、未遂に終わったかは別にして、幕末の日本で徳川慶喜らにすすめた提案と共通するものがあった点だけ をここでは指摘するに留めておく(フランスと当該国の若い世代のための語学学校の創設、造船所の建設、道路と灯台の建設、通貨と度量衡の整備等)。最後 に、ナポレオン三世をはじめ、当時のフランス外交官、軍人の大半もヨーロッパの進んだ文明を遠隔地のメキシコや日本にもたらしてくれた点では、(とりわけ わが国にとっては)恩人だったといえようが、半面、その文明をかたくなに拒否した国もあったことに彼らは長らく気づかなかったとも言えるだろう。

■ 第407回月例会発表(2009年7月25日)
アランの原風景-初期プロポとその時代-    高村 雅一

1894年に、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツのスパイ行為で逮捕された。冤罪であったが軍法会議で有罪となり、南 米の仏領ギアナ沖の悪魔島へ流されて監禁された「ドレフュス事件」は、フランスを人権擁護のドレフュス派と国家主義的な反ドレフュス派に大きく二分した。 外に、第1次・2次モロッコ事件などによるドイツの脅威や、1902年に労働総同盟 (CGT) が結成されて大きなストライキが続発したこともあり、国家主義的風潮が強くなった状況は、アランの原風景を語る上で重要である。アランを受容した我が国も 殆ど見逃してきたアランの原風景は、政治・経済・教育などの社会学にあったという仮説を提示したい。この仮説の例証として1906年から1914年に書か れた「初期プロポ」を挙げることができる。
アランの国家主義への不信としては、モーリス・バレスが「人間は、手を持っているから動物の中で最も賢いのであるというが、この考察にはびっくりし た!」と書いている1906年2月22日のプロポ「両手を持つ人間 」や、検討する精神を開放して自由にしなければならないという1911年9月5日のプロポ「ドレフュス派は語る」を挙げたい。これらのプロポが言いたかっ たことは、物事を主義主張の基に判断するのではなく、最初に結論ありきの如く行動するのではなく、絶えず活火山のように思考の噴煙を上げていること、「持 つこと」が出来て行動するのではなく、幾何学のように正しく見ることであり、正しく思考することである。そのためには決して集団の眼で見たり思考してはい けない。つまり社会とか政治とか経済とか教育には、数学のように絶対的真理というものは無いのである。従ってアランは、選挙制度においても比例代表制は個 人を選出するものではないから認めず、正しい政策には必ず政治家個人の資質が重要になってくると見ている。数学のような抽象的思考には不変の解答が可能で あるが、社会学という具体的事象の科学においては困難なのである。

■ 第406回月例会発表(2009年5月23日)
岡本一平の見たフランス    湯本 豪一

大正、昭和初期を代表する漫画家岡本一平はストーリー漫画の創始をはじめとして、風俗漫画、政治漫画、似顔絵漫画などに名作を残して 一世を風靡した。彼は漫画家という職業を広く世間に知ってもらうために尽力し、日本最初の漫画家団体である東京漫画会の設立にも主導的役割を果たしてい る。こうした、時代を代表する漫画家岡本一平が2回の海外旅行でフランスをどのように見ていたかについて言及した。大正11年の1回目の海外旅行では数日 だけのフランス滞在ということもあって旅行者としての印象が強いが、昭和4年から7年までの2回目の旅行ではフランスに9ヶ月ほども滞在し、じっくり腰を 据えてフランスを体験している。
2回のフランス体験は岡本一平の体験記的作品によって知ることができる。それらを通観しながら漫画家という立場の人物がフランスをどのように捉えていたかを紹介した。

■ 第405回月例会発表(2009年4月25日)
« Ishin et la France, l’aube des échanges scientifiques entre la France et le Japon »     Christian Polak

Pour célébrer le 150ème anniversaire de l’établissement des relations diplomatiques entre la France et le Japon, le Musée de la Recherche de l’Université de Tokyo a organisé une exposition spéciale intitulée « Ishin et la France : l’aube des échanges scientifiques entre la France et le Japon » ; elle présentait du 28 mars au 31 mai 2009 les grands moments de ces relations depuis la fin de l’époque Edo jusqu’au début de l’ère Meiji en mettant l’accent sur les différents domaines scientifiques ce qui n’avait jamais réalisé jusqu’à présent. Le conférencier s’est concentré principalement sur le séjour de Charles Buland au Japon et avant de commencer a tenu à présenter sa dernière découverte :

l’acte de décès d’Eugène Emmanuel MERMET-CACHON, mort le 14 mars 1889 à la Villa Marie-Léon à Cannes dans le Sud de la France ; il s’était marié à Louise Alphonsine DURAND, et était ancien Consul général de France, officier de la Légion d’Honneur, il est enterré au Père Lachaise à Paris.

Charles Buland (1837-1871), maréchal des logis de l’escadron de Spahis de Cochinchine, s’est retrouvé en 1864 chef de l’escorte de la Légation de France à Yokohama sous les ordres de Léon Roches, et en même temps professeur au Collège franco-japonais de Yokohama. En 1868, il est pressenti pour rejoindre la première mission militaire de France au Japon, mais celle-ci doit rentrer subitement après la Restauration Meiji. Buland devient alors professeur à l’Ecole militaire d’Ôtamura en 1869, puis il signe l’année suivante un contrat de cinq ans avec les autorités du nouveau gouvernement de Meiji pour le poste de directeur de l’Ecole militaire et du Prytanée d’Ôsaka. Son patriotisme le pousse à rejoindre sa patrie pour combattre la Prusse, mais à peine arrivé en France avec treize de ses étudiants, il meurt subitement à Auch le 11 avril 1871.

■ 第404回月例会発表(2009年3月28日))
フランス語の伝来-国語学(日本語学)からのアプローチ    大橋 敦夫

近世後期からの日仏交渉史の中で、フランス語と関わることで生じた日本語史上の変化事象とその研究課題について考察する。その構成は、以下のとおりである。
Ⅰ.仏学資料をめぐる国語学(日本語学)上の課題
1.外来語(&外行語)
2.欧文脈
3.資料研究
4.(地域)資料の発掘
Ⅱ.仏学資料を用いた日本語(史)研究の現状と課題
Ⅲ.今後の課題Ⅰで挙げた4点について、日本語(史)研究の現状と課題を次のようにまとめた。
Ⅰ-1.外来語については、日本語学の概説書等において、ファッション・料理・美術分野のものが多いと指摘されてきたが、考現学的見地から絶えず観察し 続ける必要がある。また、「外行語」(フランス語に入った日本語)の変遷を追った研究は手つかずと思われるので、英語等との比較の興味からも、すぐに手が けたいものである。
Ⅰ-2.欧文脈の研究も、主として英学資料を対象としたものであり、仏学資料による日本語への影響関係を探ることが課題として残されている。
Ⅰ-3.資料研究は、現在のところ桜井豪人氏の独擅場である。資料研究は、研究の原点であり、その成果を咀嚼・批判し、さらなる考察の深化へと生かすべきである。
Ⅰ-4.松代藩のように藩の軍制をフランス式にしたところでは、、同一書籍を複数取り揃えている。その活用の実態に迫り、仏学資料への親炙の度合いを確認せねばならない。今後の課題としては、上記の他に、①旧制高校(文丙・理丙)のフランス語教育および海軍兵学校のフランス語教育の実態と外来語・欧文脈の関わり、②仏学資料に見られる訳語のさらなる考察、③地域資料の持つ意味の考察、などが考えられる。

■ 第403回月例会発表(2009年2月28日)
フランス語学の先達-鷲尾猛先生と川本茂雄先生    山本 慧一
市川 慎一

鷲尾猛、川本茂雄両先生に山本が初めてお会いしたのは、1953年4月、早稲田大学第一文学部仏文科3年生のときであった。鷲尾先生 はF.ギゾーの『文明とは何か』、R.デカルトの『方法序説』をテキストに用いられ、「冠詞論」と「時形論」を講じられた。少し高めの透き通るような綺麗 なお声で正確に発音され、原文を直訳するのでなく、「この文は何を言おうとしているのか」を徹底的に問われ、説明できなくなると、先生が理路整然と説明な されるのであった。程なくして病気がちとなられ、1967年2月21日亡くなられた。川本先生は、フランス語史と中世フランス語を原書で、言語学概論では ソシュールの『一般言語学講義』などを教えられた。川本先生は英語に堪能であるばかりか、アテネ・フランセでソシュールの継承者であるバイイの高弟フレイ からフランス語を学ばれ、戦前、フランスに留学された。戦後、1960年と1967年の2度米国に留学され、最初の留学では変形生成文法理論を、2度目の 留学ではヤーコブソン宅に下宿されて詩学および記号学を研究なされた。それらの研究成果を日本語に適用なされようとされた矢先、1983年8月1日亡くな られた。                                                          (山本慧一)

鷲尾先生は大正年間に文部省在外研究員として、川本先生は第二次世界大戦突入の直前にフランス政府給費留学生として渡仏された。渡欧前、両先生ともに フランス語の達人であられたであろうが、その後はその能力に一層の磨きがかかったことは想像に難くない。お二人ともに生きたフランス語(鷲尾先生は発音) を重視されたが、川本先生はジャン=ポール・サルトルの戯曲は、俗語、卑語等を知らないとよくわからないと強調されたことが今でも忘れられない。院生時代 には『オーカッサンとニコレット』を講読されたが、川本先生の演習題目も記載された1963年度大学院文学研究科時間表コピーを参考資料として当日の参加 者に配付した。                        (市川慎一)

「フランス語学の先達~」と題する対談の司会を務めたが、意をつくされたかとなると、私の非才と限りある時間のため甚だ心許ない。それは両先生には親 しく謦咳に接しなければ窺い知ることのできない、ある種の超俗的な語学的天性をもっておられたからである。幕末以来、仏学史上「フランス語」の遣い手はい くた数えることができよう。しかし「フランス語学」となると事情は違ってくる。幸い両先生に親炙しえた2会員によっていくたのエピソードを交え、特徴ある プロフィールが描かれた。司会者としての印象は、発音のすばらしい鷲尾先生は深く自己に沈潜され、感得されたフランス語の深奥の世界を『仏蘭西小文法』 (白水社、1938)などにまとめられ、さらに晩年には独創的な「フランス語冠詞論」に結実されたのだと思う。一方、川本先生はソシュール言語学から生成 変形文法を経てR.ヤコブソンの詩学に触発され、単にフランス語にとどまらずその広い言語理論の博捜から日本語論に移られるや、惜しくも天国に召されたと のことである。この栄誉ある司会を仰せつかった非才な私は、両氏の対談をもって今後の励みとしたいと思われた。
(滑川明彦)

■ 第402回月例会発表(2009年1月24日)
私のビゴー研究     清水 勲

ビゴーが日本で出版した画集は36冊、風刺雑誌は103冊余で、これらに描かれた風刺画・風俗画・世相画は1800点余。この中の日 本関係作品の解読が私の研究の第一目標である。とくに第二次『トバエ』(明治20~22年)の作品437点の解読を優先していきたい。同誌の特徴は大別し て次の7点である。
1 小中学生も知る著名な漫画を掲載
2 自由民権期末期に創刊され、その終えんの社会情勢を描写
3 日本人がキャプション作りで協力し、日本人をも読者対象にした
4 『トバエ』の日本人読者はジャーナリストたち
5 ビゴーが常に監視されていたことがわかる風刺画を掲載
6 鹿鳴館の内部を多数描写記録した
7 風刺の対象は、日本政府・政治家・内閣・薩長・官吏・官憲・条約改正・ドイツ・日本文化・日本および日本人・外国人・・・と極めて多様である『トバエ』の日本文は中江兆民とその高弟たちが協力したと思われるが、一点だけ兆民の文章と思われるものがある。それは24号(明治21年2月1日刊)の「外国熱の流行」のキャプション中にある「余輩此病の事に附いてハ嘗(かつ)て埃及(エジプト)に於て聞く事ありしが・・・」という文章からわかる。明治21年1月以前にスエズ運河(明治2年開通)を通った仏学塾関係者は兆民・高弟(田中耕造・野村泰亨・酒井雄三郎ら)の中では兆民のみだからである。
ビゴーに関わる文章を読み直すと、研究対象となるテーマを突然思いつくことがある。たとえば、明治24年頃にビゴー宅を訪れた画家の長原孝太郎が昭和3年に書いた次のような文章である。「・・・僕が訪ねた時、彼の部屋には赤い布で腰の辺を纏った裸体の油画などがあった・・・」これは、日本で描かれたかなり早い時期の油彩裸体画ではないか。明治10年代、フランスに留学中の山本芳翠は油彩裸体画を描いているが、日本で描かれたも のはビゴーのこの作品が最も早いものではないかと思うようになった。この現物の所在は最近わかってきたので入手できればと思っている。

■ 第401回月例会発表(2008年12月27日)
幕末仏学・英学の重層的課題    滑川 明彦

1. 蕃所調所はかって九段下にあり、やがて洋書調所から東京開成学校へと発展してゆく過程は英学史ではよく語られるが、一方、雉子橋 - 一ツ橋 - 護寺院ヶ原辺りについては、仏学史では重要な位置とされる。それは、仏学史上、ナポレオンⅢ世より徳川方に送られた26頭のアラビア種馬が、横浜の太田陣 屋を出て慶応3(1867)年6月26日江戸城内での公式贈呈式の前に、現在の千代田区一ツ橋1丁目・九段南1丁目を結ぶ雉子橋あたりの幕府の厩舎に収容 されていたことが「奥祐筆手留めの慶応3年6月26日の条」に記されているからである。このようにこの地域一帯は英学史、仏学史の両面に関わっている。

2. 安政5(1858)年6月19日、神奈川沖のポーハッタン号で日米修好通商条約を結ぶ前の嘉永6(1853)年6月3日アメリカ東インド艦隊司令長官 M.C.ペリーが遣日国使として浦賀に来航、同月9日に幕府は久里浜でアメリカ大統領フィルモアの国書を受領という経緯があった。ペリーが来日に際して持 参していたのはペリーが手に入れた伊能忠敬作成の日本地図を基本としたものであった。 恐らくオランダ商館に勤めていたドイツ人P.F.J.シーボルト(1796-1866)が、国外に持ちだした日本地図がオランダからアメリカに渡り、その 写しをハリスが持参したのであろう。その中で北海道の北、宗谷海峡がStraits of La Perouseとなっていることに注目したい。さらに注記されているように、伊能図が「わずかな追加と訂正を加えられたシーボルトのものから転写された」 というのである。La Perouseとはルイ16世の命で、18世紀に現在の宗谷海峡を横断したペルーズ号にちなむ名称である。ところで伊能忠敬が製作した日本の実測地図「大 日本沿海実測地図」の欠落部分が、フランスはブルゴーニュ地方のイーヴ・ペレ(Yves PEYRE)氏が約30年ほど前、パリ南東約300キロにあるブルゴーニュの家の屋根裏で見つけられたが、日本地図センターの調査の結果、図形などから <伊能図に間違いない>と断定されたという。それが平成16(2004)年12月、日本大学文理学部100周年記念館での「伊能忠敬の日本図展」で一部公 開された。では、どのようにしてペレ家に渡ったか、である。ここに日本・オランダから始まってアメリカ-フランス が重層的に関わってくる問題がある。

3. 私は北海道の五稜郭に久しく関心を抱いてきたが、その五稜郭建造に関して日英仏にからむ疑問が解けずにいる。それは安政2(1855)年6月~7月にかけ て英国東インド艦隊3隻の誘導で、フランス・インドシナ艦隊3隻が函館に入港した。これは安政元(1855)年8月23日の日英和親条約がある一方、日仏 間には和親条約はなかったための誘導であろう。日仏間が正式に条約を結び両国間の交流が公式におこなわれたのは安政5(1858)年9月3日の日仏修好通 商条約締結を見てからである。なぜ、日英に先立ち日米、続いて日露、日蘭などと和親条約が結ばれながら、日仏間には和親条約はなく、遅ればせながら日仏修 好通商条約が日の目を見たのは上記の安政5(1858)年9月3日になってからなのであろうか。

■ 第400回月例会発表(2008年11月22日)
天才と大物-フランスと日本    一川 周史

1960~90年にフランスと日本で出会った、価値意識の変更を迫る仏・日の巨人達を、啓示を思わせる彼等の生の言葉と共に紹介(日本人はフランスと関連づけられる人):
M. Bougai:天才舞踊家。古典技術から美的、音楽的、躍動的独創へ。ピカソ等も日参見学。
E. Decroux:近代パントマイムのfondateur。バロー、マルソー等全世界のmimesの師。
宇野多美恵:パリの花形外交官夫人から「相似象」学会を継承発展、今なお多数の信奉者。
H. Langlois:世界初のcinémathèque創設者。Keaton、Marais、黒沢等、全映画人の恩人。
H. Cartan:Bourbaki創設の数学者。脳力、気力、体力+pianiste、engagé、偉業への資質。
永井康視:禅→ギリシャ哲学→ドイツ→インド神秘思想の瞑想者。無欲、無頓着の自由人。
F. Noël:演出家、馬術家で中世馬上劇を再興。無類の気楽さと壮大な自然舞台感覚の天才。
G. Serbat:ラテン語の権威。ナチス時代に抵抗軍を設立し戦後は大学者となった反骨の人。
Netzer:仏文教師。文学の独創的な味わわせ方で学習者を飽かせない上品で芸術的な解説。
中村天風:ヨガ導入の大哲、武術家。大正、昭和に有名無名の多くの信奉者を生み出す。
八田一朗:レスリング導入、一時代を画す。常識外の発想で不可能を可能にする選手を作る。
J. Mayol:1976年、100mまでの無酸素潜水を敢行。映画Grand bleuで若者のhérosに。
西井 郁:フランス家庭料理から古流精進料理の後継者に。全てに未練なしで即時転進の人。
大木健二:築地市場長老。上海警察赴任後復員、種々新西洋野菜を導入。温かさ代表の人。
M. Chapuis:Versailles宮殿礼拝堂主任オルガン奏者。変幻自在の即興作曲演奏の天才。
波多野茂彌:演劇と仏文。国文→仏文と一転、R.Rollanの翻訳。実験劇場主で演出、出演。
*天才は学問や芸術に新世界を生み、大物はゆとりの生命力。両者相まてば巨人の出現。
つくづく男は頭、女は腹の存在と思います。実在は腹、つまり生命を繋ぐ子宮です。我々男には頭を役立たせる対象である子宮、腹、自前のそれがないので す。男は頭の計画と腕力で女と子供を守るのが仕事で、悪く言えば使い捨て要員。船が沈むとき女子供が先。当然ですね。男は2、3人も残れば人間滅びませ ん。
私の知った天才とは何だったか。芸術なら感動を呼ぶ新世界を生み出せる人、学問なら人知の壁を突き破り人間文明を高める人、となると創造芸術家に軍配が上がる。
大物たちに共通するものは何か、私と縁のあった大物は皆すべて腹、体の人であり、その上に相当な頭も乗っかっていた。机上専門の人はいなかった。そして与える愛情が豊かで、男も女もひるまず闘い、今を生きる人でした。

■ 第399回月例会発表(2008年10月25日)
リヨン報告-リヨンの絹織物と日本    加藤 豊子

「絹の都」リヨンと日本のつながりは、開国と同時に開始された日本側からの生糸輸出に始まる。両者は絹織物と原料生糸という関係で深 く結びつき、その交易関係は明治以降も続いた。多年この日仏生糸交易史を研究テーマとしてきた筆者であるが、今夏初めて、リヨンの地を踏み、リヨン絹織物 史の所産に直接触れる機会を得ることができた。

最も強い印象を受けたのは何と言ってもリヨン織物装飾芸術博物館である。展示された実際のリヨン絹織物の数々を目の前にして、リヨン絹織物の、日本製 品とは比較を絶した、圧倒的に高度な品質を否応なく見せ付けられたからである。製糸技術力の差というだけですまされない歴然たる違いであった。もちろん筆 者は製糸技術の観点からも考察を行ってきたので、trame(緯糸)とorgansin(経糸)の問題にも強い関心を抱いていたが、いかに国際的評価の高 かった日本生糸も、彼の地では緯糸だけに使用され、経糸に使用されなかったことが長年の疑問であった。実際の製品を目の当たりにし、疑問の一部が氷解した のだった。

数世紀にも及ぶ絹織物の歴史を有するリヨンが、19世紀前半ヨーロッパに蔓延した蚕の微粒子病による原料不足に見舞われ、代替原料を日本に求めたこと はよく知られている。そこに端を発して開始された日仏間の生糸交易は幕末以降1880年代まで数量・価格(貿易高)ともに増加したこと、従来の両国生糸交 流史はもっぱらこうした数量・価格(貿易高)という数値的分析や評価を通して検討を加えられてきたのではなかったか。しかし、今後は「品質」という視点か ら見直しを行わない限り日仏生糸交易の真の姿は捉えきれないのではないか。今回の短いリヨン訪問はこのことを痛感させた。

短い滞在だったため、新資料の発掘というところまでは行けなかったのであるが、「品質」の観点からのアプローチの必要を実感できたことは、少なくとも筆者にとっては大きな収穫であったと言える。

■ 第398回月例会発表(2008年9月27日)
クローデルが魅せられた日本    里見 貞代

フランス19‐20世紀の優れた詩人・劇作家ポール・クローデル(1868‐1955)は、シャンパーニュ地方の下級官吏の次男とし て生まれたが、彫刻家の姉カミーユの強い要望により、父を単身任地に残し、1881年一家をあげてパリに移住する。姉は交際する芸術家たちを通して知った ジャポニスム、特に日本の浮世絵を青年期の弟ポールに紹介する。彼はそこに発見した「生き生きとして生命を吹き込まれた」劇的な日々の光景に強く惹かれた という。外交官として中国に滞在中、1898年5月から6月にかけて念願の日本観光旅行をするが、その体験と印象は「松」、「散策者」、「森の中の黄金の 櫃」、「あちこちで」等のエッセイとして『東方の認識』に収められる。クローデルが次に来日するのは、駐日フランス大使の任命を受けた1921年11月下 旬から1927年2月までである。この間彼は、現在流にいうならば<国際人として>異文化を全面的に受容し、そこに自己を同化し、生来のフランス的感性に よってそれを再創造した。大使としての任務のかたわら、当時の日本をかなり広汎に旅行し、そこで味わう「あー」という情動的感慨を、その都度短詩の形で残 している。自然の美とその背後にある超越的存在の前に、己を低くして頭を下げる日本人の敬虔な態度は、クローデルに強い印象を与えた。これらが次の任地ワ シントンに向かって離日する1927年、「日本を去るに当たっての置き土産」ともいわれる『百扇帖』として新潮社から出版された金字塔である。ここに集大 成される以前に出版された詞華集『四風帖』、『雉橋集』も、共に当時の京都画壇の巨匠富田渓仙との協作の成果であって、見逃すことはできない。1年の休暇 を除く正味4年余りのクローデルの滞日中の文学的・芸術的偉業は、有能な翻訳者山内義雄を始め有島生馬、吉江喬松、五来欣造、ミッシェル・ルヴォン、喜多 虎之助、竹内栖鳳、山元春挙その他多くの優れた日本人の資質と人間的魅力に負うところが大きく、クローデルはそこにも魅せられていたと思われる。

■ 第397回月例会発表(2008年5月24日)
マンディアルグ作品の中の日本    中島 裕之

1976年、マンディアルグは三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を翻訳、ジャン=ルイ・バロー一座によって、グランヴァルの演出で上演された。

同年の短編「1933年」は“三島の魂に”捧げられている。小説の中では具体的に三島の名は出て来ないが、主人公フォリーニョがフェラーラの街の娼館 で「聖セバスティアンを演ずる」儀式(プレイ)は、手を縛られ、腹を矢で射抜かれている三島の有名な(コスプレ?) 写真「セバスチアン自演像」(撮影・ 篠山紀信)を思い起こさせる。

フォリーニョが夜中にホテルを抜け出したのは、隣で眠る妻の頭部を殴り潰してしまいそうな「潜在的殺人鬼の状態」から脱するためである。2度ほど語ら れる臓物料理(トリップ)への嗜好、それに合う、きつくて赤黒いボスコ産葡萄酒。作中突然明かされる日付、1933年7月13日から14日にかけての夜、 パレルモのホテルではレーモン・ルーセルが死を迎えつつあった。死の原因には触れられていないが、睡眠薬を大量に飲む前には自らナイフで手首を切ったりし ていたらしい。フェラーラ生まれのファシストで飛行士の英雄、イタロ・バルボのイメージもまた主人公にまとわりつく。

1983年の短編「薔薇の葬儀」は夫人であるボナに捧げられているが、4色の薔薇になぞらえた日本人女性たちとその女主人である白薔薇による死の儀式 は三島の死を連想させる。途中、聖女たちを法悦に導いた槍刺しのために光線を導いているセラフィムが出てくる。アヴィラの聖テレサに代表される、天使に よって心臓に火の矢を突き刺されて恍惚を感じる聖女のイメージは、聖セバスティアンと対になっている。

■ 第396回月例会発表(2008年4月26日)

アーネスト・サトウの対日情報活動    楠家 重敏

イギリス人外交官サトウの幕末・明治初期の活動については彼の『一外交官の見た明治維新』、萩原延寿『遠い崖』で詳述されている。ロ ンドンの国立公文書館所蔵のサトウ文書には彼に関する膨大な資料がある。請求番号 PRO 30/33 1/4 の ‘Translations’ と題された草稿ならびに印刷資料の1868年から翌年までの分を紹介して、情報収集者としてのサトウの役割を考えてみたい。この資料群が1868年1月か ら始まっているのは、同年1月1日付をもってサトウが日本語書記官に昇進したことと無関係ではない。

草稿の筆頭は『国史略』の神代の巻の英訳である。つぎの「徳川内府(慶喜)覚書」の出典は不明であるが、サトウはこれを1月25日に英訳している。翌 日、「討薩の表」を英訳している。幕府は1月3日(陰暦12月9日)以来の薩摩藩の罪状を列記した「討薩の表」を掲げて京都に向けて出撃した。鳥羽伏見の 戦いの前日である。萩原延寿は「この日のサトウは情報将校の任務を忘れていたかにみえる」(『遠い崖』第6巻、p.160)と判断しているが、実は重要情 報の英訳で多忙な一日だった。サトウは3月26日の Japan Herald に「ミカドの布告文」を英訳した。徳川慶喜の政権返上と新政権への政権移譲の確認である。4月20日付の Japan Heraldの号外に三職八局に記事が含まれる「日本の新しい政治体制」を英訳した。内外新聞第7号の「大久保市蔵(利通)の建白書」も翻訳したが、これ は大坂遷都論である。

このようにサトウはイギリス外務省などに送った報告書ばかりではなく、横浜の英字新聞(Japan Times, Japan Herald) や日本で創刊されたばかりの中外新聞、江湖新聞という幕府系の新聞、あるいは維新政府系の太政官日誌を英訳して、これらの新聞から新しい日本の動向を探っ ている。いっぽう、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の伊藤博文、幕府の勝海舟らと親交を結び、多方面から確度の高い情報をサトウは収集した。サトウが所属する駐 日イギリス公使館以外にこうした対日情報活動をおこなえる在日外交団はなかった。イギリスについで情報量が多いアメリカでも日本の新聞を英訳した例は明治 11年の大久保利通暗殺を報じた新聞記事など数例に限られる。フランス外交官の活動はスタッフの不足もあり狭い範囲であったので、幕府側からしか情報がと れず、いきおい親幕府路線をとらざるを得なかった。イギリス公使館のマルチな活動とは好対照である。

■ 第395回月例発表(2008年3月29日)
清水 卯三郎
-1867年のパリ万博を中心に-         澤 護

清水卯三郎(志みづ うさぶらう)は1867年のパリ万博に際し、商人としてただひとり幕府の出品に匹敵する1180点もの品を出 し、帰国の際には石版印刷機や凸版印刷機、陶器の着色顔料、礦物標本、西洋花火などを持ち帰り、さらにフランス図書など洋書の輸入を早くから実践し、国語 の改良問題で「平仮名ノ説」を発表するなど、実に幅広い活動をしながら波乱の一生を送った人物であった。
印刷機械、歯科器具と歯科関係の著書や雑誌の発行、最初の新聞活字、西洋陶器顔料、西洋花火の紹介とそれに関する翻訳など、ものの始めに関する事蹟を追跡してみると、その多くの濫觴は清水卯三郎にぶつかる。今回の発表は、まず卯三郎の名が「うさぶらう」であるのか「うさお」であるのかから始まり、一部で言われている、卯三郎がパリに送り込んだ3人の芸者が、本当にパリを訪れた日本人女性の最初の人たちであったのかなどから話を展開した。
3人の芸者と一足先に帰国することになった初代の駅逓正となる杉浦 讓との関連、そこから派生して渋澤栄一が持ち帰った1枚のフランスの切手が、日本最初の郵便切手の範となり、2センチ四方の正方形の切手の発行につながった。
一方、1868年にパリではレオン・ド・ロニー (Léon de Rosny) が日本語新聞「よのうはさ」を発行したが、この記事内容から判断し、この記事はすべて清水卯三郎が書いたものだと、「遠近新聞」と「横浜新報 もしほ草」を引き合いにだして話した。
清水卯三郎がたまたま買い求めてきた足踏印刷機が、明治5年2月21日(1872.3.29)に第1号が発刊される「東京日々新聞」に関連するものだと話し終った段階で、持ち時間の1時間30分が経過した。
したがって、発表を予定していた石版印刷機、医療器具、西洋花火への関心、明六社と「明六雑誌」の関わり、洋書の輸入と学術図書の発行に関する瑞穂屋などへの言及はできなかった。

■ 第394回月例会発表(2008年2月23日)
カミーユ・クローデルと日本-その出会い-    よしかわ つねこ

カミーユ・クローデル(1864-1943)には、78歳のその生涯の中で、彼女と日本との接点が7回ほどある。ここでは彼女の年譜を通して、それらの事情を辿ってみた。

19歳。1883年、彼女は家族を説得してパリに上京。同年パリのプティ画廊で催された「日本美術回顧展」で、カミーユは、生まれて初めて東洋の日本美術を鑑賞したのである。
25歳。1889年開催のパリ万博に、彼女はドビュッシーと共に訪れた。ドビュッシーは、北斎の版画を持っていた。彼女はその〈富嶽三十六景 神奈川 沖浪裏〉に感動。その影響は、彼女の後年の作品〈波〉に反映。彼女は北斎を通して、初めて日本の美術に触れたのであった。
26歳。1890年、パリのエコール・デ・ボザールで、16‐19世紀の浮世絵版画、725点が展示され、彼女もこの会場を観て回った。
30歳。1894年、彼女は作家ドーデ (Alphonse Daudet 1840-97) の夕食会で、ゴンクール (Edmond de Goncourt 1822-96) と出会う。彼は、「大輪の日本の花を刺繍した麻の袖無し胴着を着ていた」と、カミーユの印象をその夜の日記に書き記した。
31歳。1895年3月、作家ルナール (Jules Renard 1864-1910) は、アンジュ河岸のクローデル家の夕食会に招かれた日のことを、「日本人の客がいた」と書いた。カミーユの彫刻〈日本人〉のモデルだったと思われる。日本 人画学生だったようだ。
36歳。1900年、この年のパリ万博にカミーユは、〈もの思い〉(大理石像)他、全3点を出品した。この年の万博会場には、大勢の日本人が訪館している。収入ゼロで困窮。
38歳。1902年。カミーユますます困窮。

以下は、私のノンフィクション「カミーユという女-ロダンへの愛と狂気-」(日本文化大学『柏樹論叢』2004年刊)よりの抜粋である。

「その頃、パリにやってきた日本人の中で、背筋を伸ばしている一人の男がいた。林忠正という画商である。彼は生涯を通じて、日本の文化を誇っていた男だった。」

「『お金を借用させていただけませんでしょうか』とカミーユ。・・・12月の下旬、林忠正から『300フランを用立てましょう』と返事がきた。・・・この借金のおかげでカミーユは〈運命の女神〉の再製作に取りかかった。」

■ 第393回月例会発表(2008年1月26日)
酒井雄三郎へのアプローチ    平野 実

高野静子さんは『蘇峰とその時代-よせられた書簡から-』(中央公論社1988年)のなかで、勝海舟など18人の人物をとりあげてい るが、酒井以外はいずれも超大物である。なぜ酒井なのか-その動機は、明治22年(1889)12月、万博が閉幕したパリで書かれた長文の手紙にある。こ の手紙は「人間酒井」を知るための貴重な史料であるが、徳富蘇峰を金銭面でも頼りにしていたことを明かすものでもある。酒井は蘇峰の『国民之友』に原則と して毎月通信を送るので月給を支給してほしいと懇願している。著者は「酒井の願いを蘇峰が受け入れたであろうことは、掲載された多くの通信によって推察さ れる」としているが、この「金策の件」をとりさげている翌年3月の酒井の手紙をなぜか見逃している。高野さんの父親は蘇峰の秘書で、遺贈された蘇峰宛書簡 をもとに記念館をつくった。父親の遺志をついだ高野さんは学芸員の資格をとり、書簡の整理に情熱を傾けた。蘇峰は名づけ親で、死の床となったベッドを形見 として贈られている。
木々康子さんは「19世紀末のパリと日本-林忠正をめぐって-⑩」(『ふらんす』白水社1999年1月号)で、酒井の墜落死をとりあげている。博覧会 事務官長の林忠正が凶漢を雇って殺させたという噂がたったが、木々さんは義理の祖父にかけられたこの疑惑にこだわりつづけてきた。木村毅が「窓際に椅子を 寄せてその上にスリッパが片方だけ載っていた」と書いたのを「きちんとスリッパが揃えてあった」としている。また、失恋が自殺の原因だという噂を報じた 『フィガロ』の記事を証拠としているが、真偽はさておき、ニュースソースが林忠正であろうことは記事内容から察しがつく。ホームページには『「林憎し」の 中傷は、百年を経た今も消えることはない』と記されている。
山田央子さんは青山学院大学法学部准教授で、専攻は日本政治思想史である。一昨年、『酒井雄三郎と「社会」への視点』『酒井雄三郎における「近世文明 論」と社会主義批判-共和主義思想との関連をめぐって』と題する論文をあいついで発表した。専門の立場から酒井の思想に的を絞ってアプローチしている。

■ 第392回月例会発表(2007年12月22日)
我が祖父 川島忠之助    川島 瑞枝

学者でもなく文学者でもなく生涯を銀行家として過ごした川島忠之助は、フランス文学の本邦初めての翻訳者として大正末期に偶然世に出 た。彼は嘉永6年(1853)、ペリー来航の年に江戸本所で幕府勘定方役人の次男として生まれ、父の任地飛騨高山と江戸を行き来して10歳まで過ごした。 しかし幕府瓦解と父の死後、すでにフランス語通辞を務めていた従兄中島才吉のつてにより横須賀製鉄所の学校に入り、一回生として卒業。その間フランス語と 英語を叩き込まれる。陸奥宗光の口利きで富岡製糸場に通辞として就職しブリューナと出会う。
明治9年(1876)、明治政府の抵当流れの蚕卵紙をイタリアに売り込みに行く人々の通訳兼ガイドとして世界一周の旅に出る。この旅行中、ジュール・ ヴェルヌのアメリカ版『八十日間世界一周』を買う。彼はフランス語の原文をパリにいた従兄から送ってもらい読んでいたが、アメリカ版で付け加えられた箇所 が面白く、それを加えて明治11年(1878)自家出版する。
明治15年(1882)、創立2年目の横浜正金銀行に就職、直ちにリヨン事務所に赴任した。それ以後13年間、妻を迎えに一度帰国しただけで、日本に 200通近い手紙を送り、自分の状況をしらせている。それらは今、我が家に膨大な写真と共に残されている。一時帰国の折、勝海舟から元公使ロッシュ宛の手 紙を預かったり、香港では旧知のブリューナとの再会を果たしたりしている。しかし、リヨンで3人の子を産んだ妻方子が結核となり、急遽帰国の途につくが、 上海沖で妻を失う。その後、重役の地位につき、ボンベイ支店長を務めるが、その間、高橋是清と親交を結び、是清の自伝にも登場する。再婚した彼は、明治 36年(1903)初めての男子順平を授かる。これが後に仏文学者となる。この妻もスペイン風邪で急死。銀行退職後は静かに好きなフランス文学と漢書三昧 の日々を送り、昭和13年(1938)、パリ祭の日に永眠する。生涯ハイカラ気質と先祖から受けついだ武士気質が同居した人生だった。

■ 第391回月例会発表(2007年11月24日)
明治期におけるフランスの評価
-日本人のもったフランスのイメージ-     小林 善彦

日本を近代化するためにお手本とした先進国は、主に英米独仏の諸国と考えられているが、実はそのうちフランスの比重は非常に軽い。い わゆる旧制高等学校での外国語教育を見ると、ほとんどの生徒は英語とドイツ語を学び、フランス語を学ぶ者は2~3パーセントに過ぎなかった。この事情は私 立大学、国立の高等専門学校でもほぼ同じであった。明治のごくはじめの留学生や旧制一高では、フランス語第一語学の学生の方が、ドイツ語を学ぶ者よりも多 かったのに、明治の末ごろからはドイツ語が圧倒的になる。とくに官費留学生の行く先は、そのほとんどがドイツへ行っている。
筆者が最初に勤めた学習院大学でも、安倍能成院長はフランス語を「軽佻浮薄な国の言語だ」といって、物議をかもしたことがあった。安倍氏のほかにも、 同じような評価をした中学校の教師がいた。フランスに対するこの過小評価は、どこから起こったのだろうか。ふと思いついて、明治、大正時代の中学の「世界 地理」の教科書で、英国と独逸と仏蘭西の「住民・国民」の項目を調べてみた。私の予想どおり、どの教科書も英国人、ドイツ人にはそれぞれ「自尊の心高く、 着実、堅忍」とか「勤倹尚武、学術に長じ」などと賞賛しているが、フランス人となると、「軽佻浮薄、奢侈で忍耐に欠く」と批判的である。
フランスに対するこの否定的な評価は、どこから起こったのであろうか。教科書の著者たちは多分フランス語を知らず、フランスを見たこともなかっただろ う。安倍学習院長はドイツに留学したが、フランスには数日行っただけだという。ほとんど見たこともないフランスのことを、口をそろえて批判しているのだ。 これにはなにかもとがあると思い、久米邦武の『米欧回覧実記』を見ると、さきの教科書と同じ評価に出会った。これが起源であろうか。

■ 第390回月例会発表(2007年10月27日)
アランの生涯と邦訳書    高村 雅一

アランの邦訳書は、1933年(昭和8年)に作品社から出版された桑原武夫訳『散文論』が嚆矢である。本書は『芸術論集』 (Système des Beaux-Arts,1920)の第10節の抄訳であった。雑誌『新フランス評論』(NRF)に毎号2頁のエッセイとして「アランのプロポ」 (Propos d’Alain)が掲載されていたが、その翻訳を三好達治の勧めで雑誌『作品』に1933年5月号から連載し、同年末に99頁の小冊子と して出版されたものが本書であった。その後、桑原は1939年(昭和14年)1月19日にル・ヴェジネのアラン宅を訪問している。
アランの邦訳書の2冊目は、1936年(昭和11年)に創元社から出版された小林秀雄訳『精神と情熱に関する81章』(Quatre-vingt- un chapitres sur l’Esprit et les Passions,1917)であった。本書は哲学概論的内容と言えるもので、アラン自身が第一次世界大戦へ参戦中に執筆したものであった。哲学はアラン にとって学問研究の対象ではなく、〈生きること〉を対象とするものであったため、その思想は文学、芸術、音楽から政治、経済、宗教、教育などの広範な領域 に及んでいる。
しかし、1937年(昭和12年)に創元社から出版されアランの邦訳書の3冊目となった水野成夫・浅野晃共訳『政治と文化』(Propos de Politique,1934)は、国会図書館で検索することもできず現代の私たちが眼にすることは殆どない。アランは思想を体系化させることがなく、ソ クラテスのように人が思考するための善き教育者であり、実際にその生涯もリセの一教師として終えている。創作の方法としては、殆ど現象学的に事物や存在へ 接近する方法、つまり具象化された事象に基づいて思考して書くことにあり、その出発点となった『一ノルマンディー人のプロポ』(Propos d’un Normand)の完全版(3083章・全9巻)は、やっと2001年にアラン研究所(Institut Alain)から出版されたばかりである。

■ 第389回月例会発表(2007年9月22日)
海を越えたハイク-フランスとメキシコの場合-    市川 慎一

『日仏交流』第13号(2007年)誌上に、同名の小文を書いたばかりなので、口頭発表でも内容が部分的に重複するのはやむをえない。
ポール=ルイ・クーシュー(1879-1959)は最初の来日(1904年)から帰国後、すぐさま友人らとセーヌ河を舞台に吟行の船旅を決行し、フラ ンス語による連歌を試みている(Cf.『川の流れに沿って』 Au fil de l’eau. 1905)。彼のおかげで、フランスは俳句先進国となったといえよう。もちろんクーシューとてチェンバレンやアストンらの先行的研究を踏まえて、卓越した 俳句論を含む著作『アジアの賢人と詩人』(1916年、邦訳あり)を上梓した。
クーシューは俳句を次のように理解した。
1)俳句は日本人が長らく愛唱してきた和歌(彼はutaと表記)とは異なり、和歌の理解には中国古典などの教養が必要なのに、俳句は庶民的な詩型であること。
2)俳句は瞬間的な印象をつづる詩型であること(そのため、蕪村の俳句から絵画的な名吟を69句も選び、仏訳している)。
メキシコからは、1900年にホセ=ファン・タブラーダ(1871-1945)が渡来し、数ヶ月滞在したとされる。ところがサンフランシスコ発太平洋 横断客船Empress of Japanに乗船したとする研究者がいる一方で、詩人が利用した客船は「レドウス」号と特定する専門家(田辺厚子氏)もいて、この点未詳。さらに日本から メキシコの雑誌に「和歌の翻案を一五ほど送った」(同氏)と指摘されるだけで、詩人と俳句の関係もはっきりしない。後(1911年)にタブラーダは渡仏す るが、ジャポニズムの余韻のただようパリで俳句に接したのではないだろうか―これが筆者の今後のテーマとなりそうだ。(仏語に堪能だった彼はゴンクールの 著作等を西訳しているが、筆者の調べた限りではクーシューに言及していないようだ。)

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